一年前のホテル・ルワンダ

 ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 06/02/25に端を発した議論、もう一年以上前だったんですね。その時のことが記憶にひっかかっていて、去年の2/28の過去日記「差別を糾弾する口調」を見てみましたら、何のことはない今と全く同じようなことを自分は書いていました。
 一年も経つならもっと考えも成長してよさそうなものと…まあそれはしかたがないですか。同じところをぐるぐる回りながらどこか一歩進むとかずれるとか、今はそれが精一杯でしょうね…歳ですし ○| ̄|_

 「差別」問題を語るときに糾弾口調になる方にはどうもついて行けないところがあります。他者を「差別をする者」、「差別意識を持つ者」として糾弾するとき、どうしてもそれを咎める側は差別に対してイノセントな、いえむしろ「高い」立場に身を置いているのではないかと思えるからです。


 差別問題は皆の心の問題だ、自分にもその種があることを意識しなければならないというその御当人が、自分と異なる者として他者の罪や責任を問うとき、そのおっしゃられる言葉は私に違和感を感じさせます。


 町山氏の当該記事で申しますと

 ところが、この人は、虐殺の種を抱えている自分に全然気づいていない。

 というところと

 人を差別し虐殺するのは日本人や特定の民族ではなく、まさにこの人のような人が原因なのです。

 というところのつながりの間に、実は密かな「ずれ」があるのではないかと見えるのです。


 差別は他人事だと思ってはいけない。我々はこの問題に関して局外者でいることはできない。すべての人が自分の心の中に差別の種をもっているのだ。云々…


 これを否定するつもりはありません。正論だと思います。


 しかし「誰もが例外なく差別者になりかねない」という認識は、他者を糾弾するという態度につながっていかないはずのものなのではないでしょうか? あなたも私もいつ「差別」する側になるかもしれないよ、というのは共感を求める言葉であり説得する言葉です。惧れを認識させる言葉といっていいかもしれません。 その認識は、何も私たちに特別の「高い位置」をもたらしてくれるものではないのです。

 まったく、溜息がでるぐらい何だか同じところに自分は着目したもんだと…
 ただ、直接この「私の正論」を騒ぎの渦中でぶつけることをしなかったことだけは「成長」だったかなと少しだけ思いました。