ちょっとだけ「村上春樹の文学は日本の過去に免罪符を与えようとしている」の続き

 昨日紹介した朝鮮日報日本語版の元記事(04/02)は →(こちら


 国際交流基金の肝いりで、およそ一年ほど前、2006年の3月に東大駒場キャンパスで一つの国際シンポジウムが行われました。それは、『春樹をめぐる冒険―世界は村上文学をどう読むか』 "A Wild Haruki Chase"―How the World Is Reading and Translating Murakami―というもので、一般の入場は抽選で限定されました。(ネット上にこのシンポジウムの内容について、翻訳論の切り口から勝貴子氏が書かれたものなどもあります)
 このシンポジウムの模様は、柴田元幸・沼野充義・藤井省三・四方田犬彦編、国際交流基金企画『世界は村上春樹をどう読むか』文藝春秋社、2006.10 として単行本化されてもいます。


 シンポジウムの基調講演はアメリカの現代作家Richard Powersによって行われ、そこでは

 村上春樹を読むことからわれわれが得るのも、われわれ自身の脳の皮質のなかで、彼のニューロン的コズモポリタニズムを盗用することの喜びにほかなりません。
 リアルとリュールリアル、孤独と社会、グローバルとローカル、見慣れたものと見慣れないもの。
 これらすべてが、脳の劇場のなかで肯定され、却下され、改訂され統合されていることを村上春樹の小説は知っています。(『世界は村上春樹をどう読むか』p.51)

というように言われていたとのこと。


 さてこれに比べ、昨日の記事で触れた「東アジアで村上春樹を読む」シンポジウム(高麗大学東京大学共同主催)で小森陽一氏(言語情報科学)が述べた(という)内容は

海辺のカフカ』がヒットした背景には、日本の社会構成員らの集団的無意識の欲望と作家の文学表現が結合した極めて危険な転向の姿がある

海辺のカフカ』は侵略戦争をめぐる記憶を想起させるエピソードを数多く登場させているものの、わずかな間だけそれを読者に想起させ、“すべてのことは仕方のないことだった”という風に容認した後、記憶自体をなくしてしまう

日本社会では、戦争の記憶が無意識の傷として位置づけられており、その傷に対する集団的罪悪感の治癒を求めている


 そして小森氏がこの発現発言と同様のことを書いた『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』平凡社新書、のアマゾンレビューはこちら→(レビュー
 また小森氏の同書にについて興味深い書評を書かれているブログもありました→(小森 陽一 『村上春樹論』


 昨日考えたよりも部分的にはまともなテクスト論らしいのですが、読む気にも買う気にもなれないのが本当のところです。ということで、万が一買わずに読む機会でもできましたら何か書きましょう。原文を読まない以上、この話はこれでおしまいにしておきます。