たとえば

 「基礎」とかいう漠然としたものに妙に拘ってしまうのは、私にはどうしても「自分の知らないところ」で正しい道があるに違いない、という気持ち(信憑)が働く時の方が多いように思えます。
 釣りをしてみたい、と素直に思ってやろうとしても、どこからか「釣りはヘラブナに始まって…」とかいう基礎の話が出てきて、そういうものかと少し怖じるとかいう感じでしょうか。小学校の高学年の算数だって、むしろ代数の発想があった方が楽に考えられるなんていうことは実感されている方もいらっしゃるのではないかと思いますが、どうしても小学校の算数ができなければ中学の数学はできない、というような「基礎」の発想をお持ちの親御さんの方が多いようにも感じますし。


 正しい道筋でなければ正しい結果に至らない、というこだわりは却って邪魔になる時も多いと思うんです。
 たとえば教育再生会議の発想
 教育再生会議:親向けに「親学」提言 母乳、芸術鑑賞など
 「親学」なんかまさに「正しい育て方」のガイドラインみたいな発想じゃないですか。子守唄を歌ったり、母乳で育てたり、演劇鑑賞させたり…それはそういう育て方で成功した人もいるかもしれませんが、その道筋だけが推奨されるっていうのはどうでしょう?
 それでもおそらくこういうマニュアルを求める方々はいらっしゃるのでしょうし、私にはそういう方々が「何でも基礎が大事」とお考えの人たちと重なっているように思えます。その基礎の「正解」を示してもらって、それに従えば「うまくいくだろう」というどちらかというと人任せの発想ですね。一概に責めるわけにも参らないとは思いますが、それだけでもないということは頭に入れていて欲しいものです。


 で、こういう向きには河川図モデルの有効性を言うのですよ。今、求められる(というか望ましい)状態を設定するとして、そこに至る道筋はむしろ問わない(問えない)という考え方ですね。なにも一つかそこらの正しい基礎に基づかなくても、「結果良ければすべてよし」のちゃらんぽらんの勧めです。


 むしろそれが「基礎の良さを競う」みたいな対案路線になりますと、それは同じ発想どうしの綱引きになるだけです。ローティーンの頃から尾崎豊を聞かせましょうみたいな(笑)
 それはまるっきり同じような変な考え方ということなんじゃないかと…