三浦展『下流同盟』

 三浦展氏の本(これは編著ですが)は読んだのが『下流社会』についで二冊目です。書店に置いてあったのをパラパラ立ち読みして、具体例が面白そうだと買ってみました(朝日新書720円)。
 面白い考察が諸処に見られ買った価値はあったと思いましたが、一つの難点は氏の着想の「ファスト風土」がまだ思いつきの域を出ていない感があるというところでしょうか。アイディアが先にありきで、そのデザインに沿ったところの例をいろいろ集めてみました…という感じを全般に受けるのです。


 この本では三浦氏が実際にアメリカなどを視察しインタビューをとって、その現状などの分析もしようとしているのですが、その中で典型的かなと思われる次のやり取りがあります。

 ズーキン教授の意見は、日頃私が考えていることとまったくと言ってよいほど同じだ。そこであえて、私はさらに聞いてみた。
「たとえば、郊外の大型店ばかりの、アイデンティティのない地域で育った子どもと、グリニッジビレッジみたいに地域のアイデンティティがあるところで育った子どもとでは、違う人間になったりしますかね?」
「うーん、それはわからない。難しい問題ね。それに、地域のアイデンティティというのは一方で排他的で閉鎖的なものでもありうる。白人の住む地域と有色人種の住む地域のように、お互いが排除し合うこともあるから」
 ズーキン教授の答えは、私の質問への答えにはなっていなかった。地域アイデンティティに内在する問題と、地域アイデンティティがないことから生まれる問題は別の問題だ。
 それからアメリカの場合の特殊性がある。アメリカにはチャイナタウンに代表される人種ごとの地区がある。地域アイデンティティについて考えようとすると、必ずこの人種問題が頭をもたげてくる。だから、同じ人種、民族の中で、地域アイデンティティがある場合とない場合の違いを比較することができないようなのだ。(pp.91-92)

 三浦氏の語る「ファスト風土」は、地域への大型商業施設の出店で本来固有の歴史と自然を持っていた地方の風土がファストフードのように均質なものとなってしまうという危機意識です。そして大店舗の出店で地域商店街は衰退し、破壊された地域社会が人間関係を壊し、その結果としてプライベートな領域の肥大と社会性の喪失が起きたり、また青少年の社会への関わりが薄まったり、意欲が消えて格差が固定化したり、犯罪が増えたりする…ということがここで推測されているわけです。
 ただどうにもそれがアイディア先行型に見えてしまうのは、ここでのブルックリン大学のシャロン・ズーキン氏との話にも現れるように、相手の話を捉えようとするとか現象から考えようとするよりも自分の考えにあてはめることを優先する態度などがそこここにあるからでしょう。
 本書ではウォルマートの事例と日本での大型店の出店が同様のものとして考察されるのですが、たとえばウォルマートが出店した地域の平均賃金を下げるという特徴を持つのに対し、秋田に出店したイオンなどでは周辺地域の最高額の時給を出すということなどがほとんど考察の対象になっていません。同じところ、自説*1の補強になるところだけ採り上げて、そうじゃないところには注目が向かないというのは、たとえ新書だという点を割り引いても少々強引に過ぎるように思えます。


 折角面白い事例や鋭い視点がいくつか見られるのですから、あまり性急に結論を出したりしないで、事例と土臭く関わっていけばいいのにという感想です。もう少しこの考えが深まって、また事実に語らせるぐらいにまでなればきっとさらにいいものになると思います。
 すべての事象を「ファスト風土」や「グローバリズム」で語ろうというのは(そういう印象を受けます)いくらなんでも欲張りですね。たとえば次のところ、

 前近代社会においては、身分や職業がアイデンティティを決定していた。現代においては、個人は自由に自分のアイデンティティを確立しようとする。とはいえ、アイデンティティを確立するには、核となる何かが必要だ。その核を自分で作り出せればよいが、作り出せないことも多い。
 そのとき若者は、強いものにすがる。具体的には宗教に救いを求める者と、国家に救いを求める者などが現れる。国家という、本来最も個人から遠いものが、ファスト風土の中で砂のようにバラバラになった個人に力を与え、彼らに確かなアイデンティティを与えるように感じさせるからである(拙著『難民世代』参照)。

そうやって日本の自然を破壊し、地域社会を破壊することが、地域社会を空洞化させ、国民の地域へのアイデンティティを危機に陥れ、結果、国家への帰属意識を高めるからである。本来美しかった日本を壊すことで、新しい美しい日本へのナショナリズムを昂揚させるのだ。それが戦略であるとすれば、かなり巧妙な戦略である。(pp.40-41)

 前半部分の議論は、いくらなんでも…という感じです。「近代」が抱えてきた問題、日本近代が直面した問題を、前世紀も終わりの方からの「ファスト風土」とかいったもので説明しようとするのは、筆が滑ったにせよあり得ないこと。また、後半部分はちょっと陰謀論じみてしまっていて、こういうのをまともな議論の途中で読ませられると気分が白けてしまいます。


 蛇足で一つ申しますと、こうした「格差社会」を語るような本の多くは、同時に「多様な価値観」「様々な生き方」を肯定しているものがほとんどです。それならば「お金に振り回されず貧乏でも楽しい生き方」があって然るべきだと思うのですが、どうしてもお金が入らない状態を不幸としか表現できていないのです。安い給料で使われる者は不幸。可哀想。それはひどい…というのも、一つのものの見方であるということはどこかで意識すべきだと考えるのですが。ちょっとした矛盾かなと感じるこの点に、いつか答えてくれる論者が現れて欲しいものです。

*1:他の執筆陣にしても三浦氏の視点を採用されています