歳なんですかね…

 今日も早く起きてしまったんですけど、ずっと読書。といってもすごい本とかじゃなくて、小野不由美の『屍鬼』を昨日読み始めてて、今朝は二巻の途中から。ミステリだラノベだといろいろジャンルはあっても、彼女の作品はちゃんと人間の愚かしさが描かれているから、普通にこれは好きな本です(文学っていうのもどうかと思ったり、昔だったらこれは文学だろうなと思ったり)。


 愚かしさと言えば、最近歳の所為か物語(本でも映画でもアニメでも)の「負のご都合主義」が個人的にどうにも許せなく感じてしまって、自分の鑑賞の幅をひどく狭めてしまっています。ご都合主義が「登場人物の危機が奇跡か偶然か、はたまた考えてもいなかった味方で救われる」みたいなものだとしたら、負のご都合主義は「登場人物が物語的要請によって、信じられない、あるいは未熟な、もしくは不用意な行為で危機に陥ったり死んだりするもの」ですね、私にとって。
 作劇のご都合ですか…と言わんばかりの「たかをくくった」「舐めた」行為によって無駄に死んだり、感情移入する側が誰かの稚拙な行為でひどい危機にさらされたり、「俺、この戦いが終わったら結婚するんだ」みたいに意味の無い死亡フラグが立てられてみたり。
 よほど周到に、納得できる形でこれらのことが起らなかったら、そこでもう頭に血がのぼって許せなくなってしまう感じなんです。へたくそ、と(作者を)ののしってみたり。


 わかってはいるんですけどね。神の視点みたいなものを与えられているから、こういう不満がでてしまうというのは。すべての物語に(ゴルゴ13みたいに完璧な)プロフェッショナルの登場人物しかでないとしたら、相当に書くのが難しいだろうとも思います。もともと話にならないかもしれませんね。
 どうしても避け得ない愚かさ、なら何とか許せるんです。それはもちろん自分の中に見る愚かさでもあります。むしろそういうものが無い甘甘はかえって面白くないとも思います。でもそれが(負の)ご都合主義的に見えるのは何とも耐え難いのです。


 なぜ少年少女が主人公の作品があるのか、といったことが少し前に話題になっていたと思います。もちろん読者を感情移入させやすいとか成長する物語が書きたいとかいろいろな理由もあるでしょうが、何と言っても主人公の未熟さでお話が組み立てられる部分が便利だということもあると思うんですよ。それだけ話の起伏が無理なく作れるといいますか、ありがちな行為による失敗とかそういったもので読む側・見る側を納得させ易いところは絶対あります。
 でもそれが「あざとさ」を感じさせるようなら、それはやっぱりへたくそなんです。作る側が。私にとっては。たとえば小野不由美作品は(多少の揺れはありますが)基本的にちゃんと人物造形していますし、設定が奇抜なものでも個人的には確かにそこに人間がいるなあと感じさせてくれるものです。
 量産型の「間抜け」はもう見たくないんですね。


 こういうのは実はシプラーの『ワーキング・プア』を読んでいた時もなぜか感じてしまっていた感情でもあると白状します。なんであなたたちはそんな愚かしいことをするのか?どうしてそういう選択肢を取らなければならなかったのか?
 もちろん全部結果論だというのはわかっていても、そして自分だって同じように愚かな行為をとるかもしれないんだということをわかっていても、それでも「何故」と(これは疑問ではなくおそらく叱責として)考えてしまうことを免れませんでした。せめて合理的な、あるいはちょっとした知識をつけて思慮した行為があれば、こんな事態にはならなかったのにと、感情移入があればそれだけ却って責めてしまう自分がいましたね。


 ちょっと困った感じで、自分でもどうしてなんだろうと思うほど「未熟さ」とか「たかを括った態度」が気に障るこの頃です。とりあえずこれから三巻にかかります。まとめて私にくれていった前の同僚に感謝。