男女論

 かなり以前(2003年)の、岡田斗司夫さんの「新オタク日記」より

倉田真由美さんと対談。
 開口一番「私みたいな女、男は嫌いでしょ」と決めつけ発言。「自分が今までしてきたことは、ことごとく男に好かれないことばかり。例えば、勉強して一ツ橋大学に入った。でも、高学歴は恋愛上、けっして有利ではない」「高校のとき、憧れの彼に手編みのセーターをプレゼントした。でも、そういう重たい女、男は嫌いである」
「だから」と彼女は続ける。「そういう素の自分を、男の前では出さないようにしている」
 う〜ん、たしかにそうかもしれない。ゆっくり説明しよう。
 男というのは、女と比較するとあまり人目を気にしない生き物だ。大雑把とも言える。
 例えば、着ている服だって、女の子は異性の目以上に同性の目を気にする。自然、仲の良い子どうしは、同じような服装をすることになる。友達をえらぶときの判断基準に「どんな格好をしている子なのか」も入るだろう。
 彼氏を好きになる時も「あんな人が?」と思われたくない、一般受けしそうな人の中から、彼氏候補を選びがちになる。
 自然、人気は一部の男性に集中する。
 つまり「こんな男、女にはもてないでしょ?」という公式はなりたつのだ。
 が、男の場合、こういう配慮が少ない。クラスで女子の人気投票をしたら、いつも票がばらける。男はみんなフェチだから。自分の「フェチポイントをヒットした女」に欲情する。太っている女が好きな男もいれば、やせてる女が好きな男もいる。
 気の弱い女性が好きな男もいれば、気の強い女性が好きな男もいる。
 高学歴が好きな男もいれば、バカな女ほど好きな男もいる。
 ほんとうに、男の好みは様々で、一人一人、偏っている。
 確かに、男の多くは胸の大きい女が好きだとか、高飛車より癒し系が好きだとか、言えるように見える。
 しかしそれは、「目の前の女」と何の関係もない場合が多い。
 だから、倉田さんクラスのルックスと性格を好きな男は、相当に多いはずだ。
 しかし彼女は、女の公式で男をおしはかろうとする。「私みたいに、ポンポン言い返す女って、男はみんなきらいなんでしょ?」となる。
 違うって。
 確かに年配の男性の場合、口答えする女を嫌う男性も多い。でもそれは、年を取ってくると、プライドが高くなりすぎるから。「年下から言い返されるなんて許せない、特に女に言い返されるなんてとんでもない」と感じるからなのだ。そういう世代的な偏見で、女の好みとは違う。
 世の中の男にとって、女の好みは実に様々。その上、案外その「好み」はタイトでないのだ。
 目の前に好みのタイプと全然違う女の子が現れて、自分のことを好きになってくれると、とたんに彼女が好みのタイプになってしまう。
 よく女性が「好きになった人が、好みのタイプ」などと言うが、男の場合「好きになってくれる人が、好みのタイプ」なのだ。
 こういう話をすると、たいていの女性は怒る。
 それって、女なら誰でもいいってこと?
 いやいや、そんなことは決してない。
 男だって、個人個人で、どうしてもこういうタイプはダメというものはある。でも女の子みたいに、好みにうるさくない。
 それに、どうしてもダメというタイプにもばらつきがあるから、こういう女性は、絶対男にはもてない、ということはほとんどない。
 それが証拠に、ホストクラブの経営と、キャバクラの経営だと、ホストクラブの経営のほうがずっと難しい。ホストクラブの場合、好みのタイプでない男性には、女性はびた一文払わない。
 倉田さんは、「女は自分の好みに忠実である。男も同じはずだ」という推論で。「自分みたいな女はもてない」と決めている。
 しかし男は多少女の子のルックスがイマイチだなと思っても、優しくしてもらえば相手がかわいく見えてくる。
 つまり「自分の好み」は絶対的な要因ではないのだ。

 結構ありそうな話…とも思いましたが、残念ながら絶対こうだ、という説得力には欠けるでしょう。
 だって反証を挙げさせればいっぱい出てきます。
 くらたま氏が語る男像に当てはまるような男も、岡田氏が語る男像に当てはまるような女も、案外世の中にはいるもの。確かにくらたま氏の決めつけと言いますか「私みたいな女、男は嫌いでしょ」という全称命題はひどいのですが、これを否定するなら岡田氏はそこに成立しない要素があることを示せばよかっただけです。それが対抗して岡田氏なりの全称命題まで行ってしまっているのがちょっと…というところですかね。
 ただしここまで熱く「オレ理論」を提示する勢いがあるからそれが興味深いというのはあって、この語りはどこか怪しげではあっても「面白い」もの、何か考えてみるきっかけとなっているのだろうとも思います。


 敢えて一言付け加えれば、岡田氏の提示する女性像にはやや矛盾した側面があるように感じます。ここでの女性像は「人目を気にする/横並び意識が厚い」ものです。ですが後半では「自分の好みに忠実」な女性像が強調されます。「(偏らない)一般受けする男性を選ぶ」はずの女性が、後の部分では「好きになった人が、好みのタイプ」で好みのタイプ以外には一銭も払わないという趣味に忠実な女性と描かれます。
 これはおそらく前の方で捉えられる女性像が「学校」的集団にいるときの女の子、集団の同調圧力が強い場合の女性から帰納され、後ろの方の女性像が大人になってばらけて(独りでホストクラブにいくような)同調圧力を受けない女性から説明されているためではないでしょうか。
 男子も案外学校みたいなところでは同調圧力を受けると思うのですが、そこはやっぱり岡田氏、身近に「人目を気にしない/横並び意識が薄い」一匹オオカミタイプの男性、身なりにかまわないオタクタイプの男子が多かったことから形成された印象ということがありそうです。これが大人になって会社に縛られるようになった集団の中の男性をよく見ていれば、また異なった感想が聞かれたのではないかということです。
 つまり氏の提示する男像・女像は異なった対象から帰納されてしまっているように感じるんですね。一口に男といい女といっても、年齢や投げ込まれている集団、立場の違いによってはいろいろ傾向が変わってしまうもの。あまりまとめて語っても(安易に全称命題にしても)なかなかうまくいくものではないという例かと思います。