災害と悲嘆と立ち直り

 『いいひと』の16巻読んでみました*1阪神淡路大震災から1、2年、復興途上の神戸が舞台のエピソードが、5話連続で一つの掌編のように入っているものでした。


 災害は平等に訪れるのにそこからの立ち直りは何故…という感じで、人生の不条理さ、それに囚われて前に進めなくなりがちな人々の気持というものについて「一緒に考えてみる」趣があるエピソードだと受け取りました。確かに先日書いたことにつながる部分もありそうです。


 ともすれば説教臭くもなって反発を受けそうな題材を巧みに描いていると思います。これは主役と言うより狂言回しポジションの北野ゆーじが自分の考えを基本的に「言わず」、周囲の「気づき」に任せるというストーリーテリングのおかげなのでしょう。彼がたとえば作者の代弁者となって演説してしまったら、話を聞くものはほとんど出てこないでしょうから。言ってみれば彼は魂の助産者役というあたりに見えました。
 ここでの「いいひと」は、他人の話をちゃんと聞いてくれる人だと思います。しっかり関心を向けて聞いてくれる人がいれば人は気づくものだというのは確かにちょっと「お話」なのですが、不自然なところは感じられず、いい作品だなと素直に思えます。


 人生は不可解なものであり、理不尽な様相を見せることがあります。それにどう向き合って自分を建て直していくかというのは、何も災害に出会わなくても常に私たちの課題となってくることだと思います。それを社会的不正義、不公正の所為だとして他罰的に捉えるというのも一理。ただしそれは長い目で見れば「便法」であろうということなのでしょう。
 「戦争を待ち望む」という言い方が、自分の言葉を聞いてくれという叫びに他ならないのではないかと思えてきます。ただしそこに予定調和のような「気付き」があるかどうかは別ですが…


 魂の助産術がらみで、この北野ゆーじ君を見ながら次の言葉を思い出しました。

 本当に大切なことを、私は文章で表現したりはしない。文章によっては伝えられないからだ。人に何か本当に大切なことを伝授しようと思うなら、繰り返して出会い、異論反論を戦わせる中で、いつしか、こちらの熱が相手に伝わり、それが火となって相手の心の中に燃え上がるのを待たなければならない。それにも拘らず、心に抱いている大切な問題をあえて文章に記すとすれば、それはせっぱつまったやむにやまれぬ事情が、私の分別を失わせたからだ。
プラトン「第七書簡」)

 話はちょっと飛びますが、また大学教育のことあたりでも話題が盛り上がっているようです。id:fuku33さんの思われる講義には、上記引用のあたりに関わる熱意・事情があるようにも思えてなりません。それはおそらくノートとペンでは書き留められない「文章によっては伝えられない何か」なんじゃないかと、ふと思いました。

付記

 Wikipediaの「いいひと。」の項を覗いてみたら概要の部分に「狂言回し」という表現が使われていて、直感でその言葉が出てきたのは不思議じゃなかったんだと納得。

長編漫画において、各エピソード単位の中心的なキャラクターというものが存在し、全編の主人公はそれらエピソード内では狂言回し的な存在になっている、という構成をとる作品は珍しくない。しかし、作者である高橋によれば、この作品の方向付けを固めた時点(具体的には3巻5話=通算27話目から始まる、いわゆる「LCチーム編」)以後、積極的にそのような構成をとった、すなわち各エピソード毎の主人公を設定し、全編の主人公である筈のゆーじは「媒体」として位置づけた、とのことである。尚、タイトルの『いいひと。』に”。”がついてあるのは、「いいひと」が主人公のゆーじ個人だけを指すのではなく、登場人物みんなに呼びかける言葉にしたいから、という作者の願いによるものである。
(日本語版Wikipedia「いいひと。」の項より)

 ただ、ゆーじ君が狂言回し・媒体であるとして、各編に異なった主人公を立てているという感じまでは1冊を読んだだけではわかりませんでした。あと、正式名称が「いいひと。」と句点付きだったのにも改めて気付いたぐらいです。今は、新古書店でも眺めて他の巻も集めてみたい気持ちになっています(最初から危惧された(笑)ことだったのですが…)。

*1:tenntekeさんご紹介ありがとうございました。少し前にkeya1984さんより教えていただいた折口信夫の本はなかなか手に取れないのですが、さすがに「いいひと」は新古書でそれなりに残っています。大きい図書館が近間にあればいいのですけど…