善意の責任

 善意でボランティアに出かけて、そこで何がしかの事件があって、その時本人に責任はあるかという問題を考えるのは難しい問題です。どのレベルでの責任か、どれほどの責任かなどを判断しなければならないからです。
 少なくとも刑事罰に関しては、善意もしくは悪意の不在の場合それを問えないという常識はそれなりに共有されていると思いますが…

 …まず原則として「故意」がなければ犯罪にならないということをおさえてください。故意というのは「こういうことをすると処罰しますよ」の「こういうことをする」という気持ちをさします。そういう気持ちがなければ故意はないのです。例えば刑法261条の器物損壊罪は「他人の物を損壊」した時に成立する犯罪ですから「他人の物を損壊」する気持ちがなければ故意がないので犯罪が成立しません。刑法38条1項本文がこのことを定めておりまして「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。」としております。「ちなみに罪を犯す意思がない」の具体的判断基準の1つが、刑法38条3項本文の「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。」です。法律を知らなければ「何をすると処罰されるかわかるわけがない」ので、処罰されないように行動することもできないという理屈はなり立ち得る話です。…刑法ではそこをあらためて明記することにして、「法律を知らなかったというのはだめだよ。」としたのです。
構成要件に該当するための3つの要件

 どこかのフォーマルな演奏会に幼い子供を連れて行くという例を考えてみます。もちろんそれは子供に良い演奏を聞かせてやりたいという善意からのもので、さらには演奏を邪魔しようという気持は毛頭無い場合だったとします。その場合でも、結果的に子供が場を弁えず演奏をめちゃくちゃにしてしまうということはあり得ます。
 その場に居合わせた人の迷惑に関して、子供を連れて行った人に責任は生ずると考えるのは妥当なことだと私には思えます。ここにある責任は、当然予見し得た「子供が騒ぐ」というリスクを過少に評価(もしくは評価していなかった)ことによって発生した周囲の不利益に対する責任と理解するのがふさわしいと思います。
 とはいえそれをどのぐらいの責任と見積もるか、周囲の受けた損害を適正に評価しその度合いを測るということは必要ですし、これはどちらかと言うと民事の「被害者救済」の発想による損害回復が適用されるケースでしょう。そんな比喩で考えてみても、善意の責任をどう測るかは本当に難しいことだなと思えます。


 韓国人人質事件で、また一人が処刑されたとの報が出てきています。たとえ彼らにいくらかの責任はあったにせよ、命を奪われるまでのものとは到底思えません。なんとも救いようがないケースです。
 タリバン、人質シム・ソンミンさんを殺害か中央日報日本語版)