ヒュームの問題

 科学論と哲学との関わりでは「ヒュームの問題」と呼ばれる帰納に関する問題、古典的な難題がありました。それはある意味科学法則の真理性を疑わせるに足るものであり、これを「哲学の入っている戸棚の中の骸骨*1」だと言った方*2もおられます。
 それをとても簡単に申しますと帰納した事柄に関する真理性は論理的には導けないということにでもなりましょうか、これで少なくとも簡明でナイーブな科学に対する信頼というものには疑問があるということになり、科学法則が論理においても経験においても合理的に確実な基礎を持たないのではないかということが真剣に議論されたのです。
 バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』でも、この問題に関して次のような言及がなされています。

 ヒュームは純粋な経験主義が科学のじゅうぶんな基礎ではないことを証明した。しかしもしこの一原理[帰納]が認められれば、他のすべてのことを、われわれのすべての知識は経験に基づいているという理論にしたがって処理できる。これが純粋な経験主義からの重大な離反であること、そして経験主義者でない人びとなら、一つの離反が許されて他の離反が禁じられなければならないのはどうしてだと問えるであろうことは認めなければならない。しかし、これらはヒュームの議論が直接に提起した問題ではない。ヒュームの議論が証明していること―この証明を論駁できるとは私は思わないのだが―は、帰納が経験からも他の論理的諸原理からも推論されえない独立の論理的原理であるということ、またこの原理がなければ科学は不可能だということである。

 この帰納の問題について、科学哲学者カール・ポパー(1902-94)は幾つかの解決を導きました。ただしその過程で、たとえばナイーブな「真理の発見」的科学観は地位を失い、私たちの知識は常に暫定的なものであるとしか言えなくなってしまっているようなのですが…。


 このヒュームの問題について自分であれこれ考えてみることは、科学とはどういうものかを考える上でとても有意義なことだと思います。ブライアン・マギー『哲学と現実世界』(恒星社厚生閣 2001)というポパーの入門書(的な本)から引用して、この帰納の問題をもう少し見てみましょう。

 全称言明(general statements)*3を特殊な諸事情について蓄積された観察に基づかせる方法は、帰納(induction)と呼ばれ、科学の特徴とみなされている。いいかえると、帰納的方法の使用が科学と非科学との境界設定基準とみなされている。観察や実験証拠に基づいた―要するに、事実に基づいた―科学的言明だけが信頼できる確実な知識を提供するものとして、権威、感情、伝統、思弁、偏見、習慣、その他のよりどころに基づいた他のあらゆる種類の言明と対置される。科学はこのような確実な知識の集合体であり、科学の成長は手持ちの一群の確実な知識に新たな確実な知識を付け加えていく無限の過程である。

 これが伝統的な科学的方法に対する見解で、このような考え方に対して、厄介ないくつかの問題がヒュームから提起されたのでした。

 単称観察言明*4の数がいくら多くなっても、[すべての―は、という数のうえで]無制限の全称言明をけっして論理的に導き出せないことをヒュームは指摘した。ある場合に、出来事Aに出来事Bが伴うことを観察したとしても、別の場合にそうなるということは論理的に帰結しない。二回このような観察をしても―また二十回、二千回観察しても―そのような帰結は出てこない。もしじゅうぶんしばしば起こるならば、次回もAにBが伴うであろうと期待するようになるかもしれないが、これは心理学の事実であって、論理学の事実ではない、とヒュームはいう。


 太陽はわれわれの知っている過去には次の日も再び上ってきたであろうが、このことから、明日太陽が上るということは導き出されない。もしある人が「それはそうだが、物理学の確立した法則を、現時点でわれわれがもっている諸条件に適用すれば、そこから明日太陽が上る正確な時刻を実際に予測できる」というならば、われわれは二つの仕方で彼に返答することができる。
 第一に、物理学の法則が過去に有効だったことがわかっているという事実は、未来にも引き続き有効であろうということを論理的に導き出しはしない。第二に、物理学の法則はそれ自体、全称言明であって、支持例として挙げられる観察事例がいかに多くとも、論理的にはそこから導き出されないものである。したがって帰納を正当化しようとするこの企ては、帰納の妥当性を前提しているので、論点先取の誤謬*5を犯している。科学全体は自然の規則性―すなわち自然法則が働いているとみなされるあらゆる点で、未来は過去に似ているだろうということ―を仮定しているが、この仮定を保証しうる方法はない。この仮定を観察によって確立することはできない。

 要するにこのヒュームの結論は、帰納的手続きの妥当性を論証する方法はないけれども、私たちは帰納機能的手続きによって考えざるを得ないように心理的に構成されているというものでした。その帰納的手続きがうまく機能しているようには見えても(といいますか見えるからこそ信を寄せるのですが)それが人の論理と経験を越えた「全称的」なものである分には、合理的に確実な基礎を持ち得ないということが言われているのです。先の引用のように、ラッセルでさえ「この証明を論駁できるとは私は思わない」と言明します…。
 そしてこの難題に対して多くの人は次のように考えざるを得なかったのです。すなわち、

 厳密にいえば、科学法則は証明できず、したがって確実ではないということをわれわれは認めなければならない。しかしたとえそうだとしても、科学法則の確からしさの度合いは確証事例によって増大する。そして既知の過去全体に加えて、世界が継続するあらゆる瞬間は無限に多くの確証事例をもたらしている―そしてただ一つの反証例ももたらしていない。したがって科学法則は確実ではないにしても、考えうる最高度の確からしさをもっている。そしてこの最高度の確からしさは、理論上はそうではないとしても実践上は確実性と区別できないものである。

 これはどうにもある種の言い訳に聞こえてしまうような言葉です。しかしこれは自らの論理的基礎を反省できる人たちにとっては、一つの最善の言い方でもあったわけです。他にこの問題にアプローチするとすれば、一見確実なものに見えた前提、上記「伝統的な科学的方法に対する見解」のところを問い直してみるしかないでしょう。そしてそれを行ったのがポパーだったのでした…。

*1:外聞をはばかる秘密

*2:C.D.ブロード。The Mind and Its Place In Nature(1925)。

*3:すべての―は…である、という言明

*4:この―は…である、あの―は…である、といった個々の観察を記述する言明

*5:Aを証明する際にそのAを前提して証明してしまうこと