うわさばなし

 警察官が駅で高校生を平手打ちしたというニュース、情報が報道からちょっと小刻みに出てきた感があって、反射的にものいいした人が後から批判(というか揶揄)されるような状況もちょっとあったと思います。ただこれを以って軽率だったとか、きちんとソースにあたってないとか、そういう批判めいた言い方をするのは少々なんだかなあと思わないでもないです。
 それは、このニュースの存在が噂話レベルのものだったと思うからでもありまして、これをめぐる全体が噂に右往左往ぐらいのものでしかなかったと感じるからです。そして、そういう噂に自分の意見を挟んで見たりといった反応の仕方自体が、これはこれでブログ界隈では重要な役割を果たしていると思えるからでもあります。
 何も天下国家を憂えたり、専門の知識を開陳したりするばかりがブログではないと申しましょうか、そういうのばかりだったら敷居が高くて量的な盛り上がりは望めません。もちろん駄文(というかこうして書いているものがそれにあたるでしょうが)ばかりになるという御批判もありましょうが、玉石混交の状況では「選抜して玉を増やすことを望む」ほかに「量を増やして玉の総量も増やす」という露天掘りの方向もありだと思うんですね。それを考えたら、噂話的なものへ向けられたモチベーションをむやみに減らすということは、角を矯めて牛を殺すことになりかねないと危惧しているのです。
 噂話結構、スキャンダルや喧嘩上等じゃないですか(傍で見ている分には…)。実害のないあたりで止められるのであれば、「江戸の華」は大事にしていく方がいいでしょう。火の消えたようなところには人は集まりませんから。特に「はてな」のあたりには大人の人も多いので、あまり心配しすぎることはない…とまで言えば買い被りでしょうか。


 さて噂話といえば、日記を書いている人の人物評やもめごとなど時々突出して目立つなあと感じることもあります。これもまた時に玉石の「石」と批判されたりするものですが、御当人は別として、他の者にはやはり軽い話題程度にしか取られていないのかなとも感じます。
 中島梓の評論本(『文学の輪郭』だったか)で、芸能人やテレビタレントの存在意義は「噂になること」にもあるという話があったと記憶しています。御近所づきあい、地域共同体が弱り、特に都会でマンション暮らしなどとなりますと隣の人の職業さえ知らなかったりということもあるくらいで、道端で、学校・職場で、共通の話題に事欠くことは容易に考えられます。その隙間を埋めるものが「有名人」の存在で、心置きなく私たちは彼ら彼女らの「交際の・スキャンダルの・精神状態の・裕福さの・交友関係の…噂」というものを話題にできるのだということが書かれていたはずです。
 たぶんこれは一面の真理を言っているのだと思ってきましたが、ネットでの小さなコミュニティー(様のもの)も似たようなもので、少しそこで目立ったり派手な動きがあれば「一種の有名人」化して、長続きするものとしないものがあるとは思いますが、「話題」に供されるというところはあるのだろうなと考えています。


 たかが日記、たかがブログというところで、少し離れて見るという態度でいいのではないかなと思っています。