自己責任と「おかげ話」

 「おかげ(御蔭)話」というのはよく宗教関係の文脈で出てくる言葉で、「〜となることができたのは信心のおかげだ」とか「〜で病気が治った」とかいう類の御利益(ごりやく)を語る類の話を総称するものです。霊験(れいげん)という語の「験」も「しるし」と訓じ、この御利益を指します。
 こうした類の話は言ってみれば「体験記」とか「闘病記」のエッセンスみたいなもので、人によってはわが身を振り返るよすがになったり、自分の生きる指針のヒントになったりと良い影響となる場合もあるのですが、新宗教あたりのセールストークのようなものとして毛嫌いされている向きもあるものです。


 この「おかげ話」、基本的な構造としては原因・結果に関して転倒した形を持ちます。「〜になった」「病気が治った」などの結果の側、現在の姿の側から辿る方向で捉えられた一つの原因が、その元(と思われる方向)から一本道でひっくり返して語られる、つまり「過去を振り返って見た因果関係の把握が、過去の側から明らかなものとして語られなおす」という形をとっているのです。これはわざとするというよりは、そう語らざるを得ないものとしてあるという意味で構造的なものだと考えます。
 あくまでそこで捉えられた因果は主観的なもの、ところがそれが語られるときには客観性を帯びたものとして表現されるのにはこういう理由があるんですね。
 そしてどこそこにお参りしたから受かったとか、なになにを食べたから病気が克服できたとか、それぞれが自分の中で思っている分には自由ですが、これを他の人に信じさせようとするとやっかいなことになってきます。あくまでそれは「自分にはそう思える」という意見の表明にとどめ(もちろん自分の信心は大事にしていただいて結構なのですが)、無理に第三者に押し付けないほうが皆の幸せにつながるような気もします。

 日頃のおこないが悪いから

 という言葉は今でもたまに耳にします。ギャグっぽくも、半ば真面目にも言われるその言葉ですが、もともとこの「おこない」は古語の「おこなひ」で、古語辞典などで引けばここに「勤行」とか「仏道の修行」とかの意味があることはわりに知られていることだと思います。つまり「日頃のおこないが悪い」というのは普段きちんと仏道など宗教的行為にに勤しんでいないということで、まあ「おかげ話」(の逆?)に類するものであろうということは容易に推測されることでしょう。*1
 もちろん今はこの語の宗教性などは意識されずに使われています。多分にそこには一般道徳的含意が含まれている気配はしますが(つまり「悪いことをすれば相応の報いが…」という感じで)。そして、これを他の人に向けるということが実は他の人に「おかげ話」を押し付けているのにも似た行為になっているんじゃないかと思うのです。


 「自己責任論」が「日頃のおこないが悪いから(そうなんだ)」というように誰か他の人に対して使われる場合、そこで出現している因果関係の把握は十分考慮されているのでしょうか。客観性はきちんと認められるのでしょうか。私にはかなり不十分なものが多いように見えることがしばしばです。
 ここにもまた知らず知らずの転倒、捉えなおされ語られなおされる因果関係が実はあるんじゃないかと…


 自己責任というのはあくまで「自分(たち)」に向けて「自分(たち)」で使うべき言葉じゃないかと思うのです。本当の因果、責任の所在云々はともかく、自分で自分に責任を引き受けようとする(つまり誰かに責任転嫁しない。○○の所為だ、とはしない)姿勢は潔く時に偉いものだと感じます。これを否定はしません。
 ですが、誰かに対して「自己責任だろ」なんていう言葉を投げかけるのは、言ってみれば「自業自得」という言葉を安易に使っているのと同じだと感じるのです。
 「おかげ話」が時に有効なように、誰かに自己責任だと迫るのも有効・有益なこともあるでしょう。でもやっぱりそれはもともと限界を持ったもの、主観的なものだということを意識した方がいいはずです。これもまた「無理に第三者に押し付けないほうが皆の幸せにつながる」ものだと思うんですね…

追記

 PSJ渋谷研究所Xで「3た」論法という記事を読みました。その(雨乞い)「3た」論法とは

「祈った→降った→効いた」という勘違い論法のこと

だそうです。
 ここで書いた「おかげ話」と関係がありそうだと思いましたのでトラックバックさせていただきます。

*1:岩波の古語辞典は特にこの語幹の「おこ」に儀式・勤行等の同じ形式や調子の行事という意味を読み取り、単に行為を意味する「行なひ」からの派生ではないと解釈しますが、これは勇み足気味ではないかと個人的には思っています