平等というもの
王あるいは特権階級による政治の独占に対して主張され、獲得された「平等」はもとも政治参加における一人一人の立場の平等でした。そしていつしかその平等は人権思想として各人の法律的・社会的平等につながっていき、さらには物質的な境遇まで同じような水準であるべきではないかというところまで(心理的にも)展開していったのです。
ただしその変化は必ずしも当然と言えるものではなくむしろ一つの「冒険的企て」であって、「諸条件が似たりよったりになればなるほど、現に人々のあいだにある差異は説明がつかなくなり、それだけにいっそう個人間および集団間の不均等は増してしまう」と危惧を指摘したのがハ(ン)ナ・アーレントでした。
すべての市民の平等ということがわれわれにとってはすでに政治的正義の自明の前提の一つとなっている事実は、平等というものが近代人の得た最大の成果の一つであるのみならず、最も当てにならぬ成果の一つでもあるということをえてして見落させる。法の前での万人の政治的・法律的平等は、社会的な、また物質的な境遇の同質性の増大をともなっていた。けれどもそのような境遇が同質的になればなるほど、個人と集団との非同質性も大きくなった。この一見逆説的な結果は、平等というものがもはや万物を超えた力を持つ神の前での、もしくは人類共通の運命としての死の前での平等を意味せず、人民そのものの内部での世俗的な組織原理となったときにかならず人々の目の前に見えて来た。このような条件のもとで平等は、それを測るべき尺度と、その根拠となり得べき超越的な実在性とを失った。この平等をあるがままに、――つまり、そのなかでは不平等な人間が平等の権利を持つ或る政治的組織の原理として認識するということは、十九世紀初期のオプティミズムが信じていたよりも実ははるかに困難であることがわかった。近代の大衆社会は、平等というものをすべての個人――ほかの誰もと異なっていなければ彼は〈正常〉と呼ばれ、違っていれば〈異常〉と呼ばれる――の持って生まれた資格であると考えるほうがはるかに自然だということの実例を数知れぬほど提供している。政治的概念の社会的・心理的概念へのこの好ましからざる転化は、社会が比較的限られた領域でしか人間の差異というものをはっきりと認めようとせず、それによって多くの葛藤を生み出す場合に特に危険なものになる。こうして、社会は国民国家における法的・政治的な身分の差異の撤廃に対する第一の反応として、外面的に民主主義的になればなるほど内部的にはヒエラルヒー的な構成を固めたということがいたるところであきらかになった(原注1)。
(原注1) プルーストは Le Côté des Guermantes 第二部第二章でこう言っている。
[しかし、アメリカ合衆国におけるように、条件の平等ということが与えられているとみなされていたとすれば、つまり―いずれの階層に属するものであれ―社会のすべての成員が能力と幸運によって自分も立身出世談の主人公になれるのだと固く信じていたとすれば、事情はまったく違っていたろう。そのような社会では、差別というものは栄誉を得るための唯一の手段、いろいろな集団がそれに準拠して自分らは公民的、政治的、また経済的な平等の圏外にいるのだと思うことができる普遍的な掟のようなものとなる。差別がユダヤ人問題のみと結びついているのではない場合には、その差別は多民族国家が本来かかえているさまざまの困難や葛藤を暴力や暴民支配や卑俗きわまる人種概念で解決しようとする政治運動の結晶核となり得る。生物的にも歴史的にも世界で最も平等ではない住民の上に平等を実現しようと敢てしたことは、アメリカ合衆国の最も期待をそそる、だが最も危険なパラドックスである。合衆国においては社会的反ユダヤ主義はいつか政治運動の危険な核となるかもしれない。しかしヨーロッパではこの反ユダヤ主義は政治的反ユダヤ主義の発生にはあまり影響しなかったのである。]
政治的同権というもともとの平等が「社会過程のなかでの諸個人の平準化」へと進んだ二十世紀の(画一的)大衆社会の中で、「近代の人種妄想」が現れてきたとアーレントは言います。
なぜなら人種というものは、境遇や生活条件のおよそ考え得るかぎりの変更や平等化をもってしても動かすことのできない自然から与えられた差異の一つだからである。人種妄想は一つには、平等の概念がすべての人を自分と同じものとして認めることを要求することに対する反動でもあったのだ。
(アーレント、前掲書)
もし平等というものを自明な(あるいは枉げられぬ原則として)教育するばかりであるならば、実際に現出してくるところの差異は「反感もしくは牽引力」として素朴に感ぜられずにはいられません。それは理屈を超えた(処理できぬ)ものとして、反発・誘引のいずれかの両極端な形となって人を感情的にしてしまうのです。
私たちがいわゆる「有名人」に対して感じるアンビバレントな感情は、まさにこの反映と言えるのではないでしょうか。