あめ玉はなくても生きていけるが、銃弾がなければ生きていけない

 朝鮮日報日本語版の昨日の【コラム】「金剛山ミステリーの解読法」という記事で、北朝鮮に関する次のような記述がありました。

 「銃弾よりあめ玉がいい」というストーリーがある。金日成(キム・イルソン)・金正日親子の誕生日に子供たちに与える砂糖がないため、武器生産を減らそうという提案があった際、金正日総書記が「あめ玉はなくても生きていけるが、銃弾がなければ生きていけない」と主張したという。このエピソードは金正日総書記の偉大さを示すエピソードとして宣伝されている。
 (強調は引用者)

 どこが「偉大さを示すエピソード」なのかさっぱりわからないのですが、おそらく「先軍政治マンセー」なりの文脈があってのことかと想像はできます。あめ玉は贅沢品、侵略者と闘う銃は必需品、それをお教えくださったのは偉大なる指導者首領さまのご子息ジョンイルさまだ、とか何とか。
 確か前世紀の末頃に「全ての国民に米のご飯と肉のスープが食べられるようにする」とか約束していたのもこの金正日ではなかったかと薄っすら記憶していますが、そこらへんは定かではありません。結局、米の御飯も肉のスープも贅沢品で、それより銃を…という話になっているのかも。


 この言葉でふと思い出したのは、サルトル

 "Que signifie la littérature dans un monde qui a faim? "
 (飢えた世界において文学は何を意味するのか?)

 といった言葉です。この言葉はおそらく、これに対する大江健三郎の応答「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」の影響によって、飢えた子供の前で…というように日本では憶えられているようです。(大江がどのように答えたか、などについてはこちらを)


 サルトルはLittérature engagéeといった形でこの問題に答えを見出します。このあたりは小泉義之氏の『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書)で触れられており、

 悲惨な現状に対する無力感にさいなまれる人間を描くような文学、そして、悲惨な現状と無力な人間に対して異議を申し立てを行うような文学があるとすれば、そのような文学は直接的にではないにしても、間接的には現状の変革を促進することになる。その限りで、飢えた子供の前でも文学は無罪であるし文学は無力ではない

 という結論だとされています。(ちなみに小泉義之氏もはてなダイアラーです。idはdesdelさん)


 こういう問題は、考え始めると日記やブログを書いている側にも飛び火してきます。世の悲惨さを、ネタや身辺雑記に混ぜて書いているとはどういうことか…などと。
 そしてたぶんblog engagéeとでもいう形で生真面目に警世のブログを続けられるような方々を生み出すのでしょう。


 ただ私はこれだけが解答ではないと思います。このスタイルは(サルトルと同じように)真摯に考えた結果であろうとは思いますが、結果、あめ玉を贅沢品として拒否してしまう姿とどこか重なるように見えるんですね。少なくとも自分はそれについては行けません(軟弱ですが)。


 ここは、同じフランスの思想家でもシモーヌ・ヴェイユの言葉を思い出すことにしましょう。彼女は「詩」が贅沢品であることを認めた上で

 労働者たちはパンよりも詩を必要としている。
 彼らの人生が詩であって欲しいとのぞんでいる。
 永遠からさしてくる一筋の光を必要としている。
 宗教だけがこのような詩の源泉になりうる。
 民衆のアヘンは、宗教ではなくて、革命である。
 (『重力と恩寵』)

 というように語ります。
 必需品だけで生きるということだけが人生ではないということを時々思い出してみることが、少なくとも私には必要に思えます。