雑草の正義

 譬喩でも何でもなくて、庭の雑草のことなんですが…。
 そろそろ秋めいてきて気温も下がり、やっかいな雑草から解放されると思いきや、ここ一週間ほどあちこちに芽を出す豆(の一種だと思う)を引っこ抜くのに大忙しです。半日もおけば5センチ以上は伸びてくる成長力を持っていて、昨年は引っ越したばかりというのもあって抛っておいたらさあ大変というぐらいに蔓延り、今年はもう芽のうちに全部やっつけちゃおうとしているんです。
 ひょいひょい抜ける程度のものなのですが、どこにこれだけの種があったのかと思うぐらいあちこちから伸びてきて、特に雨上がりの陽が出ているときなどは10本以上抜いたと思った場所あたりから20本も顔を出すといった具合で、去年ほったらかしのツケが回ってきたことを悔やんでいます。


 そういうのを抜いていると、本当に生命力というものを実感しないでもありません。どこか自分が微妙に後ろめたいと感じているのかも、とも思えてしまいます。とにかく命の芽を摘んでいるのですから(譬喩ではなくて)。
 で、この雑草にとっては芽を出し生えてくるのが正しいことなんだなと感じたのです。盲目的なものではあると思うんですが、何があっても生える、伸びる、そしてできることなら種を再び蒔く。これが俺たちの正義だ、とでも言うようにくじけずにどんどん生えてきます。
 さながらこちらは悪の帝王。残虐な屠殺者。わがままな鬼。神の如き力を弄ぶ悪魔…なんてちょっと考えながら芽を抜いていたんですが…。
 でも考えてみるとこの雑草が蔓延っていた時は他の草木が抑圧されていたわけでして、彼らの正義はまた彼らの隣人の正義と衝突する構造になっているな、とも考えたのです。
 あちらを立てればこちらが立たず。二律背反。諸行無常南無阿弥陀仏


 絶対の正義は無いのか…などとつぶやきながら、毎日芽を引っこ抜いているのでした。

余談

 あと何かこの頃疲れているんでしょうか、歌曲の短いフレーズが頭に残ってリフレインすることも多いんです。
 ちょうど去年の鉢植えのシクラメンプランターに移したのが今咲いていて、その連想で2,3日前は『シクラメンのかほり』(古)。「疲れを知らない子供のように〜時が二人を追いこしてゆく〜呼び戻すことができるなら〜僕は何を惜しむだろう〜」と延々と…
 今日はまた何だかわけがわからないんですが、学研のCFソングのメロディーで
 「マナカナマナカナ〜学研の、おばちゃんマナカナ〜」
 というシュールなフレーズが繰り返していました。