哲学と深海魚

 これもはてなでの回答です。なぜ深海魚なのか今ひとつわからないところですが、思想関係で魚とくれば…というところでお答えしました。結局回答を寄せたのは私だけになりましたが、さすがに他の方もこの取り合わせぴったりのお知恵がでなかったのでしょう。

?「哲学」と「深海魚」の関連を教えていただけませんか?

 哲学の中で、「深海魚」はよく出てくるのでしょうか。何か特別な意味があったら、教えてください。


http://www.catacombe.roma.it/jp/symb.html

 『魚:ギリシャ語でイクトゥス(IXOYC)と言います。垂直に並べたこの単語の各々の文字はアクロスティコでイエス・キリスト、神の子、救い主という意味が含まれているものです。アクロスティコはギリシャ語の一つの言葉で、各行、各段落にある最初の文字を意味しています。魚はキリスト教の信仰の概要を表しているシンボルです。』


 イエス・キリスト・神の子・救い主という言葉を並べたギリシア語の「縦読み」が「魚」になることから、魚がイエスや信仰のシンボルとなっています。(シンボルは多義ですから、意味の一つとなっているぐらいでお考えください)
 他に魚関係で言及している哲学書を読んだこと(もしくは小耳に挟んだこと)はありません。欧米の哲学書で出てきたとすれば、このシンボルの絡みではないかと思います。具体的な人名・書名がありませんので、これぐらいしか思いつかないのですがとりあえず。
(回答ここまで)


 R・ゼラズニイの短編集『伝道の書に捧げる薔薇』、ハヤカワ文庫SF215、の「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」という冒頭の一篇にイッキーという地球外海洋生物が出てきます。文中ではイクティザウルス・エラスモグナトス(板顎魚竜)なのでイッキーという通称だとされていますが、100メートルを超えるこの生物の描かれ方はどうにもただの動物ではありません。人間と意志の疎通ができるものではないのですが(むしろそれゆえに)超越的で神々しい存在だと感じられました。*1


 かなり後でイクトゥスというシンボルを知った瞬間に、ああ、あれは主人公にとってキリスト(神的存在)だったんだと全く何の脈絡もなく数年の時を超えていきなり「わかった」のでした。*2


 この手の文化的背景(そして知識)を要求する文学は、おそらく普通に日本人の私たちが読んでも結構読み落としがあるのでしょう。どれだけ感動できても、微妙にそうした抜けは出てしまうと思います。同僚のイギリス人の方と雑談をしていて"Brave New World"の話になり、お祖父さんのトマスをはじめハクスリー家はエリートぞろいというところで微妙にお互いの話が見えなくなったことがあります。私はオルダス・ハクスリーのことを頭に浮かべていたのですが、彼はさらにその元ネタのシェイクスピアが頭にあったようで、そこまで英語で読んだこともない私にはすぐに了解できませんでした(しかも彼は『素晴らしき新世界』を読んでいませんでしたし…)。*3


 でも慰めは日本の古典とかそこらの話では、外国の方はよほどの「通」か年季の入った学者でなければわからないようなところも日本人ならわかる場合があるというところです。お互い様ですね。

*1:まるで似ていないのですが、この存在感はたとえばソラリスの異様さに通じる気がします

*2:もちろん作者に聞いたことはありませんので真偽は不明ですが…

*3:あ、もちろん日本語で、単語だけ英語を挟んでの会話です。その方は日本に20年近くおられて日本の奥さまをもらっておられますし…

宇宙人に聞きたいこと

 question:1115104364
 今はてなで「宇宙人に尋ねる10の質問」が募集されています。ちょっと考えようと思ったのですが、頭の中には小ネタしか浮かびません。どういう回答がでてくるのか、様子をみましょう。
 さてこの質問者の方は、カール・セーガンの以下の言葉を引いて、この趣旨を理解して応募して欲しい旨おっしゃっています。

 私はよく「私は宇宙人とコンタクトできる。何でも質問してください」という人から手紙をもらうのだが、「フェルマーの最終定理を簡単に証明してみてください」とか、ゴルトバッハの予想について尋ねても、返事をもらったことは一度もない。

 ところが「私たちは善良であるべきでしょうか?」といった質問をすると、ほぼまちがいなく答えが返ってくる。

 宇宙人にとって答えやすい専門的な質問には口を閉ざすのに、陳腐な質問には喜んで答えるのはなぜなのだ。

 現代人は答えを知らないけれども、正しい答えならばすぐそれとわかるような「宇宙人に尋ねる10の質問」を作ってみたらどうか。 (「カール・セーガン科学と悪霊を語る」p108)

 これを読んで思い出した話があります。


 ある時私の先輩が院生たちと連れ立って青森県の恐山に行きました。イタコが亡くなった方の霊を自らに降ろし、遺族に語りかけるというところです。
 しかしその先輩は超常現象とか霊とかを真面目に考える人ではちっともなく、意地悪にもイタコの人に次のように話しました。


「亡くなったエドムント・フッサールという先生と話させてください」*1


 するとイタコにフッサールが降りて、津軽弁で語りだしたそうです。はなから引っかけをやろうとするのはちょっと汚い手口です。少なくともイタコを信ずる方を蔑ろにするようで、いい話ではありません。でもこの話にはオチがあります。


 その先輩が笑い出すのではないかと心配していた周囲の友人は、意外にも真面目な顔の先輩をいぶかしく思います。どうしたのだと先輩に問いかけると「ま、こんなもんだよ」と複雑な笑顔で彼は何も語りません。後で聞くと、一瞬本物かもしれないと思えたそうで。


 その先輩がフッサールからかけられた言葉は…


 「もっと勉強しろ」というものでした。

*1:ちなみにその方は現象学会に所属されています