「個人的」体験の遠近法 

 先日の関東での地震は確かに久々に大きく感じるものでしたが、人的被害は最少に押さえられ(数名負傷。重傷者なし)交通機関にある程度の混乱はあったものの物的損害もほとんど聞こえてきません(皆無ではなかったでしょうが…)。
 それなのにマスメディアの扱いは非常に大きいものでした。いくつかの朝のワイド番組や夕方の情報番組では特集を組み、後追い検証のような企画を組んでいました。あのぐらいの地震なのに…
 自分に近いものが大きく見えるという「遠近法」がそこに関わっていると私には思えました。


 かつて関東以外の土地に住んでいた時、実感しました。関東(東京)のメディアは、自分の周りで起きたことをやたら騒ぐくせに他の地で起きることは相当大変なことにならない限りすぐには扱わないということを。(ひがみだったのでしょうか? 笑)
 先日の地震ぐらいのものがあって、すぐにテレビをつけても情報が流れるのは良くて数分後。場合によってはNHK以外のところでは速報すら流れないという状況が昔ありました。(さすがに現行の体制では、ほとんど影響がない遠距離での震度3ぐらいの地震でもテロップが流れるようになっています。かえってうるさく感じてしまうほどですが)


 自分を中心にした「遠近法」があるのは事実でしょう。それはもちろん私も免れてはいない視点です。でもそれが、かつてのような情報発信の一極集中型(に近い)の状況下では、中心に近いところにいない人々に多少なりと不満を持たせることだったでしょう。今、それがどれぐらい改善されたかは判断できないところですが、ネットその他の存在が幾分状況を緩和しているようにも思えます。


 阪神淡路大震災の初動が遅れたのも、村山首相をはじめとする当時の政府中央が「実感」として大地震を把握できなかったからでしょう。だからこそ、それをシステムで補うような仕組み(一定以上の震度の場合、自動的に警報が送られるなどのもの)が構築されてきたのだと思います。


 大手のテレビ局や新聞社などのマス・メディアが、(いくつかの例外を除いて)その中枢を東京あたりに置いているのに、今積極的な意味が何かあるのでしょうか?
 単に惰性でやっているとか、見栄でやっているとか、社員が都内(や近郊)に居住したいからやっているとか、そういう理由しか見つからないのなら、そろそろそこらへんから考え直してみるべき時が来ているようにも感じます。さもないと、それこそそれぞれの地方発信の情報がそれぞれの人に重要であると思えたとき、いつの間にか取り残されてしまっているという状況さえあるかもしれません。
(イメージとしては、地方紙が共同通信の配信で楽するようなことを止めて充実したとき、全国紙が読まれるのは東京を中心としたローカルエリアだけになる…とかいうようなものです)
 大枠ならば、すでにグローバルに情報を流通させてしまえる基盤はできつつあり、世界の一地方都市の東京にこだわらなくてすむようになってきているとは思うのですが。(つまりローカル−グローバルの直結がなるならば、中間的まとめの部分の重要性はなくなるはず…という読みなわけです)
 うまくまとまらないのですが、一応ここまで…。

自分は自分?

 というわけで(何が?)続きですが、微妙に視点を変えて…


 私は自分は自分、他人(ひと)は他人という考え方があまりできません。もちろんこういう言い方で自分に気合を入れるときはあるのですが、おそらくこの考え方が「ほんと」ではないと思っているからです。


 自分は、他人と会って何か引き出されるときにこそ「自分」が出せています。それも一面的で固定的な自分ではなくて、時と場合によって変わり、相手によっても変わり、時につれ変化(というか成長も)していく「自分」です。一人で何か考えているときも、何がしかのヒント、きっかけ、そして材料を外界からもらわずに自分だけで考えているときはありません。それがたとえ過去の記憶であってもです。
 私は独りで「自分」をつくってきたわけではないのです。


 だからこそ私は人とコミュニケートできるのですし、最終的に意志の疎通ができないと思うのであればこうして何かを書いたり読んでもらおうとすること自体しません。無意味ですから。


 前に話した「遠近法」は、もちろん一人一人の視点、見ているものが違うということを強調する考え方ですが、それでもなお「同じものを見て同じことを考えることができる」という信憑があるのは(これ自体は常に正しいとは言えないのですが)、私がもともと他者から作られた部分を持っていて、その部分で他者を理解し共感した経験が根源的にあるからです。


 だから「遠近法」云々は、その基底的な信憑の上での仕方がない「ずれ」のことを言っています。それもまたどうしようもなく私たちの間にあるものではありますが、そこに文句がでるのも、実は「わかりあえる」のに「わかってくれていない」という不満があるからです。


 逆説的に、私たちは最初から理解不能なものに恐怖は感じるでしょうが不満は感じません。「わかる」であろうと思ってしまっているのに「ずれ」てしまうから文句もでるのです。


 自分は自分という言い方が成り立つとしても、それは他者を排除した言い方では実はありません。それは、自分らしさというか、最終的に「自分」として残る「ずれ」のことを言っているのかもしれません。私たちはその「ずれ」以上に、いえ、「ずれ」を感じると言える程度にはほんとは他者と同じ基底を持っているという信憑(根源的臆見)を持っているのです。…おわかりいただけるでしょうか?