自分は自分?

 というわけで(何が?)続きですが、微妙に視点を変えて…


 私は自分は自分、他人(ひと)は他人という考え方があまりできません。もちろんこういう言い方で自分に気合を入れるときはあるのですが、おそらくこの考え方が「ほんと」ではないと思っているからです。


 自分は、他人と会って何か引き出されるときにこそ「自分」が出せています。それも一面的で固定的な自分ではなくて、時と場合によって変わり、相手によっても変わり、時につれ変化(というか成長も)していく「自分」です。一人で何か考えているときも、何がしかのヒント、きっかけ、そして材料を外界からもらわずに自分だけで考えているときはありません。それがたとえ過去の記憶であってもです。
 私は独りで「自分」をつくってきたわけではないのです。


 だからこそ私は人とコミュニケートできるのですし、最終的に意志の疎通ができないと思うのであればこうして何かを書いたり読んでもらおうとすること自体しません。無意味ですから。


 前に話した「遠近法」は、もちろん一人一人の視点、見ているものが違うということを強調する考え方ですが、それでもなお「同じものを見て同じことを考えることができる」という信憑があるのは(これ自体は常に正しいとは言えないのですが)、私がもともと他者から作られた部分を持っていて、その部分で他者を理解し共感した経験が根源的にあるからです。


 だから「遠近法」云々は、その基底的な信憑の上での仕方がない「ずれ」のことを言っています。それもまたどうしようもなく私たちの間にあるものではありますが、そこに文句がでるのも、実は「わかりあえる」のに「わかってくれていない」という不満があるからです。


 逆説的に、私たちは最初から理解不能なものに恐怖は感じるでしょうが不満は感じません。「わかる」であろうと思ってしまっているのに「ずれ」てしまうから文句もでるのです。


 自分は自分という言い方が成り立つとしても、それは他者を排除した言い方では実はありません。それは、自分らしさというか、最終的に「自分」として残る「ずれ」のことを言っているのかもしれません。私たちはその「ずれ」以上に、いえ、「ずれ」を感じると言える程度にはほんとは他者と同じ基底を持っているという信憑(根源的臆見)を持っているのです。…おわかりいただけるでしょうか?