はやぶさ再挑戦へ

JAXA提供

 公式サイトでの発表はまだありませんが、メディアの方では「着陸失敗」と報じております。ただし、調整のうえ再実験が可能な状況であるとのこと。まだ期待できます。


はやぶさ:イトカワへの着陸失敗 25日にも再挑戦

 世界初の小惑星の岩石採取に挑む宇宙航空研究開発機構JAXA)の探査機はやぶさは20日、目標の小惑星イトカワへあと約10メートルまで近づいたが、それ以上の降下ができず、着陸は失敗した。JAXAは「着陸直前に何らかの理由で水平方向への力が強く働き、イトカワの表面に沿って飛行を続けていた可能性がある」と分析、早急に原因を解明し、25日を目標に再度着陸に挑戦する予定だ。

 はやぶさは20日午前5時46分、高度40メートルから着陸地点の目標となるボールを投下、ボールには88万人の名前を刻んだシートが入っており、無事、着地が確認された。はやぶさはそのボールに向かって順調に降下し、着陸用の姿勢になった。しかし、午前6時ごろから一定の高度から動かなくなったため、約30分経過した時点で地上から降下中止の指令を送った。

 この間、着陸時に働くセンサーが起動していなかったことから、JAXAは「着陸には至らなかった」と判断した。

 指令を受けたはやぶさは姿勢が崩れて上昇に転じ、高度100キロ近くまで達した。着陸に備える高度7キロ前後の地点に戻るには数日かかるという。また、イトカワ表面に長時間とどまり、機体が高温になったため、機器の点検も必要という。
 (中略)


 なお、星の王子様キャンペーンの、名前を刻んだ「ターゲットマーカー」(上の写真)はどうやら無事イトカワへ着いた模様です。

 ◇世界149カ国88万人の名前シートは届く

 探査機はやぶさが、着陸の目印として小惑星イトカワへ投下したボールには、世界149カ国計88万人の名前を刻んだアルミシートが入っていた。日本惑星協会などが03年5月のはやぶさ打ち上げに合わせ、「あなたの名前を星へ送ろう」と募集した。打ち上げから2年半、地球から3億キロかなたの小さな星に88万人の願いが届いた。

 ボールは「ターゲットマーカー」と呼ばれ、直径約10センチのソフトボール大。機体からイトカワの「ミューゼス海」と呼ばれるなだらかな地形を目指して投下した。はやぶさがその後、ボールを追尾する動きをしたため、ほぼ確実にイトカワ表面にあるとみられ、永久にイトカワにとどまる。 (後略)
 (毎日新聞 2005年11月20日

 とりあえずこれだけでも胸をなでおろしましたが、まだ諸手を挙げて喜べません。とにかく再挑戦を見守りましょう。

テーマ暫定変更

 テーマ「kitchen-classic」は気にいっておりましたが、このテーマの整形済テキストの欄が画面右端をあふれ出てしまいますので、とりあえず新しいテーマを試用してみます。(本来あまり変えたくないのですが、過去日記を見に行った時に右側のデザインが画面を大きくはずれてしまいますので…)

価値の在りよう

 nucさんへの応答が大変遅れてしまって申し訳なかったです。すぐにも書くはずが、いろいろ思うところがあって勝手にめげておりました。更新意欲が湧かない一週間でしたが、ぼちぼち調子を取り戻して参りましたので少し書きたく思います。


 「日本教」については、山本氏のそれには懐疑的です…という前振りでお話いたしますが、比喩がピンとこないならばそれは問題の認識がかなり異なるか比喩がまずいかのどちらかですので捨て置いてください。少なくとも私には挙げられたそれが問題の把握のポイントに思われています。(つまり押し掛け組が蒙を啓こうとする側で、村側が自分たちの価値を固守する側ですね。比喩でもなんでもなくそのままという感じです)
(実はなぜnucさんとここまでかみ合わないかについては、私も疑問というか隔靴掻痒のところはあります。つまり通常なら説明はいらないだろうと思える次元で、根っこのところで食い違いがあるのかなとも…。それはそれで面白いのですが、そこらへんの臆見で違うとなると説明が難しいんだろうなと感じています。)


 大仰に言いますと、個々人(あるいは集団)にとっての「価値」はあくまでその根源に主観的なところ(幻想と言ってもいいですが)を抱えていますよね。だからその「価値」を説明するには直接的で決定的な手段はない…と。それはあくまでそれに対する拘り、言い換えるなら自分の欲望を相手に見せることで伝わらせるしかないと考えています(もちろんそれは不確かといえばそうです)。(※そこらへんがあったので縷々説明を加えた面はあります)


 さてその「価値」は多くの人に欲求されることによってより普遍の価値と実感されるという面をもちます。そして一部の価値は、その欲求を広げ続けることによってのみ維持されるところがあるのではないかと私は考えています。ある意味静的な村側の「価値」に対する動的な「価値」のあり方、これを私は押し掛け組の背後に見たわけで、この点で対称性は崩れているのではないかと思うわけですし、上の比喩もここから来ています。


 実のところ「見えなくなっている」ところはありました。確かに。私自身がかつて調べたり足を運んだりしたところの話でして、より村側の価値に共感的であったのは事実です。
 ただしその点を割り引いても、押し掛け側の主導者と目されるイダ氏が「女性」でも「性同一性障害」に心を痛める人でもなかったところに注目すれば、そのイダ氏の「価値」は「広める」ことによって価値として維持されるような、そういう思弁的価値であったろうという思いは消えません。対する村側の価値は「広める」ことを第一義とはせず「守る」ことにあろうという点で、つまりは構わないでいてくれれば広まらないであろうというところで、私には押し付けの度合いが低いものだと判断されたのです。


 他者理解を私などが語るのもおこがましいのですが、相手を説得し価値をわからせずにはおかないという態度は、基本的に他者理解への方向とは逆向きだと考えます。もっとも、自分の価値だから放っておいてくれという態度も他者理解へとは通じるものではありませんが、少なくとも相手の価値を壊すものではないということですね。大体こういうところを考えております。


 性急に勝った負けたを決める類のことではありませんので、ぼちぼち書くというところには同意です。本当にいらぬ気を遣わせてしまったようで、お詫びいたします。ごめんなさい。