価値の在りよう

 nucさんへの応答が大変遅れてしまって申し訳なかったです。すぐにも書くはずが、いろいろ思うところがあって勝手にめげておりました。更新意欲が湧かない一週間でしたが、ぼちぼち調子を取り戻して参りましたので少し書きたく思います。


 「日本教」については、山本氏のそれには懐疑的です…という前振りでお話いたしますが、比喩がピンとこないならばそれは問題の認識がかなり異なるか比喩がまずいかのどちらかですので捨て置いてください。少なくとも私には挙げられたそれが問題の把握のポイントに思われています。(つまり押し掛け組が蒙を啓こうとする側で、村側が自分たちの価値を固守する側ですね。比喩でもなんでもなくそのままという感じです)
(実はなぜnucさんとここまでかみ合わないかについては、私も疑問というか隔靴掻痒のところはあります。つまり通常なら説明はいらないだろうと思える次元で、根っこのところで食い違いがあるのかなとも…。それはそれで面白いのですが、そこらへんの臆見で違うとなると説明が難しいんだろうなと感じています。)


 大仰に言いますと、個々人(あるいは集団)にとっての「価値」はあくまでその根源に主観的なところ(幻想と言ってもいいですが)を抱えていますよね。だからその「価値」を説明するには直接的で決定的な手段はない…と。それはあくまでそれに対する拘り、言い換えるなら自分の欲望を相手に見せることで伝わらせるしかないと考えています(もちろんそれは不確かといえばそうです)。(※そこらへんがあったので縷々説明を加えた面はあります)


 さてその「価値」は多くの人に欲求されることによってより普遍の価値と実感されるという面をもちます。そして一部の価値は、その欲求を広げ続けることによってのみ維持されるところがあるのではないかと私は考えています。ある意味静的な村側の「価値」に対する動的な「価値」のあり方、これを私は押し掛け組の背後に見たわけで、この点で対称性は崩れているのではないかと思うわけですし、上の比喩もここから来ています。


 実のところ「見えなくなっている」ところはありました。確かに。私自身がかつて調べたり足を運んだりしたところの話でして、より村側の価値に共感的であったのは事実です。
 ただしその点を割り引いても、押し掛け側の主導者と目されるイダ氏が「女性」でも「性同一性障害」に心を痛める人でもなかったところに注目すれば、そのイダ氏の「価値」は「広める」ことによって価値として維持されるような、そういう思弁的価値であったろうという思いは消えません。対する村側の価値は「広める」ことを第一義とはせず「守る」ことにあろうという点で、つまりは構わないでいてくれれば広まらないであろうというところで、私には押し付けの度合いが低いものだと判断されたのです。


 他者理解を私などが語るのもおこがましいのですが、相手を説得し価値をわからせずにはおかないという態度は、基本的に他者理解への方向とは逆向きだと考えます。もっとも、自分の価値だから放っておいてくれという態度も他者理解へとは通じるものではありませんが、少なくとも相手の価値を壊すものではないということですね。大体こういうところを考えております。


 性急に勝った負けたを決める類のことではありませんので、ぼちぼち書くというところには同意です。本当にいらぬ気を遣わせてしまったようで、お詫びいたします。ごめんなさい。