理解できない相手には「いい加減な内面の推測」をしてしまうものかも
子猫殺し告白:坂東さんを告発の動き…タヒチの管轄政府
この記事の中で坂東さんの弁明の寄稿がありますが、
ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。
と、おっしゃっておられます。
ああこの人の中では、飼い猫や飼い犬に避妊手術を行う人たちは「正しいことをやって晴れ晴れ」と内心思っているように見えていたんだなと、そう思いました。もちろん人それぞれ。そう思う人もいるかもしれませんし、それがどのくらいいるかは私にはわかりません。
また結局、彼女が子猫を崖から捨てて殺しているということに強く反応した人たちは、坂東眞砂子が子猫を殺して「正しいことをやって晴れ晴れ」と内心思っているように見えてしまっていたのではなかったかとも思いました。
坂東さんは彼女の好悪で行動されました。つまり避妊や去勢は絶対にいや、という感情です。そしてそれが子猫を殺すよりも酷い事に思えていたから、ああいう文を書かれたのでしょう。そしてその感情ゆえに、間引きより避妊を選ぶ人たちの心を「正しいことをやって晴れ晴れ」と受け取ってしまっていたのではないかと。もちろんこれは坂東さんのことがよく理解できなかった側(含む私)にも、とてもありがちなことなのでしょうけど。
さて、そこらへんの誤解の構図がわかったような気がしても、どうにも坂東さんの理屈は腑に落ちません。(もちろん「感情だ」と言われれば、そうですかと言うしかないのですが…)
私には「避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある」というのがピンと来ませんでしたので、ナチスの断種政策やハンセン氏病の断種手術の例を挙げられても、それと飼い猫の避妊とを並べて考えなければいけないという視点は何かしっくりきません。
また揚げ足を取るようですが「他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる」ならば、「他者による殺害、間引きを当然とみなす態度は、人による人の殺害へと通じる」という理屈にもなってしまいます。
陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
結局この気持ちがわからなければ、坂東さんを理解することができないのではないかと思えます。
でも坂東さん、生殖能力を若くして失ってしまった人たちは少なからずいますし、また加齢とともに皆それを失っていくのです。それでもなお「生命力、生きる意欲」の方は簡単には失ったりしていないのではないでしょうか。またこういう不用意な発言をなさると、いらぬ誤解によるリアクションが増えるように思うのですが…
多元主義を考える
社会の多元化ということが言われ、実際に一元的な価値観についてはさまざまな分野での批判が為されていると感じます。確かに世界が狭くもなってきた現在、事実として社会の多元性の進展は疑い得ないものでしょう。しかしその現実に対するにいきなり多元主義だという話にはなっていきにくいと思いますし、多元主義ということはもっと考えられて然るべきではないでしょうか。
多元主義は一般に、併存する価値観を相互尊重する規範的態度と考えられます。それはその理想的な状態で各人がそれぞれの内面の自由を持ち、それぞれに自律的にかつ十全に生きるために必要な態度と捉えることができるものです。
この相互寛容の態度自体は望ましいものと見えますが、実際のところ多元主義が現れてきた背景には「価値に関する永遠不変な絶対的真理の存在に対する懐疑」、すなわち価値相対主義があったことも見逃せません。この価値相対主義を突き詰めますと、確かにそこには平等があるわけですが、同時に確固たる倫理は存在し得ないことにもなりましょう。
多元主義における社会倫理は「最小限の倫理」になると言われています。お互いが相互に尊重し合い、ぎりぎり譲歩し合って譲れるところまで後退せねばならないからです。それが意味のない衝突を回避する方途として有効とは申せ、一定のところまで後退したにせよ「倫理」として存立するためには、やはりそこに最小限の譲れぬ部分は残らねばならないとも私は考えます。
ところが価値相対主義を徹底させてしまいますと、社会の各成員がほとんどばらばらに個人主義を貫くことすら許容しますから、そこに「倫理」(つまり「とも(倫)のことわり(理)」)が残るのかどうか大変疑問です。
思うに多元主義と受け取られるものにはいくつかのタイプがあって、その一つが価値相対主義から直に導かれる原理的な多元主義という極論でしょう。この「不寛容な多元主義」、すべて同等の権利を持つ多様な倫理が存在すればよいという「平等主義的な多元主義」は、私にはあまり実りのあるものと思えません。
むしろ実践的には、特定の立場の価値観をすべて排除するという方向ではなく、あえて言うなら「ぬるい多元主義」の方こそ目指すべきものではないかと思います。現代社会における近代主義的価値観、たとえば人間の尊厳とか個人の尊重といったものは原理的には相対的な価値でしかないものではありますが、これを譲ってまで価値相対主義を貫徹するという気は起きないですね。それは確かに純粋さには欠けるぬるい態度ですが、どこかで守る一線を持たずにずるずる理屈に殉じるのが正しいとはどうしても思えないのです。
勝手読みですが、ベネディクト16世が多文化・多宗教世界との対話において「理性」を重視しようとするのは、譲れぬ一線、最小限の倫理を成立させるぎりぎりのところに、この「理性」によって共通理解できるある種の合意が有り得ると思っていらっしゃるからではないかと思います。たとえばそれは「無関係な人を巻き込んで殺すことに義は無い」などということかもしれません。ジハードだから自爆テロも殉教であり尊い、という考え方には「理性」はないでしょう。理性を持ってくれればそれがわかるでしょう?と言いたいのではないかなとちょっと愚考。
一つの価値観を墨守することは純粋で美しいことかもしれませんが、その価値を持つ人間の拡がりを制限することになると思います。玉をいくら磨きぬいても、それは玉でしか有り得ません。その玉が、うまくすると何か他のものに変わり得ることを期待するならば、それこそ自分の理解し得ない「他者」との隣接という多元的社会に可能性を見る態度は、私も「あり」だと考えます。
でも同時に無際限の譲歩からなる相対主義は、それ自体愚かな帰結しかもたらさないように見えます。相互の自律というものを尊重すればこそ、自らの譲れぬところで自分を律しておく、そしてその拠るものにおいて他者と合意を形成していく、そうしたぬるさが案外重要なことにも思えるのです。
そこらへんの共通理解が深められれば、今後の多元主義的社会と言うものも構築し易くなるんじゃないかと考えています。いきなり理想的な多元主義を突きつける人たちも散見しますが、それにはちょっと同意できないと思うのです。
付記
迂遠ですが、実はここに書いた内容は昨日の続きです。賛意を言ってくださったトラックバックもいただいております。ありがとうございます。で、ちょっと意を強くしまして、その脈絡で続けて考えてみました。