多元主義を考える

 社会の多元化ということが言われ、実際に一元的な価値観についてはさまざまな分野での批判が為されていると感じます。確かに世界が狭くもなってきた現在、事実として社会の多元性の進展は疑い得ないものでしょう。しかしその現実に対するにいきなり多元主義だという話にはなっていきにくいと思いますし、多元主義ということはもっと考えられて然るべきではないでしょうか。


 多元主義は一般に、併存する価値観を相互尊重する規範的態度と考えられます。それはその理想的な状態で各人がそれぞれの内面の自由を持ち、それぞれに自律的にかつ十全に生きるために必要な態度と捉えることができるものです。
 この相互寛容の態度自体は望ましいものと見えますが、実際のところ多元主義が現れてきた背景には「価値に関する永遠不変な絶対的真理の存在に対する懐疑」、すなわち価値相対主義があったことも見逃せません。この価値相対主義を突き詰めますと、確かにそこには平等があるわけですが、同時に確固たる倫理は存在し得ないことにもなりましょう。


 多元主義における社会倫理は「最小限の倫理」になると言われています。お互いが相互に尊重し合い、ぎりぎり譲歩し合って譲れるところまで後退せねばならないからです。それが意味のない衝突を回避する方途として有効とは申せ、一定のところまで後退したにせよ「倫理」として存立するためには、やはりそこに最小限の譲れぬ部分は残らねばならないとも私は考えます。
 ところが価値相対主義を徹底させてしまいますと、社会の各成員がほとんどばらばらに個人主義を貫くことすら許容しますから、そこに「倫理」(つまり「とも(倫)のことわり(理)」)が残るのかどうか大変疑問です。
 思うに多元主義と受け取られるものにはいくつかのタイプがあって、その一つが価値相対主義から直に導かれる原理的な多元主義という極論でしょう。この「不寛容な多元主義」、すべて同等の権利を持つ多様な倫理が存在すればよいという「平等主義的な多元主義」は、私にはあまり実りのあるものと思えません。
 むしろ実践的には、特定の立場の価値観をすべて排除するという方向ではなく、あえて言うなら「ぬるい多元主義」の方こそ目指すべきものではないかと思います。現代社会における近代主義的価値観、たとえば人間の尊厳とか個人の尊重といったものは原理的には相対的な価値でしかないものではありますが、これを譲ってまで価値相対主義を貫徹するという気は起きないですね。それは確かに純粋さには欠けるぬるい態度ですが、どこかで守る一線を持たずにずるずる理屈に殉じるのが正しいとはどうしても思えないのです。


 勝手読みですが、ベネディクト16世が多文化・多宗教世界との対話において「理性」を重視しようとするのは、譲れぬ一線、最小限の倫理を成立させるぎりぎりのところに、この「理性」によって共通理解できるある種の合意が有り得ると思っていらっしゃるからではないかと思います。たとえばそれは「無関係な人を巻き込んで殺すことに義は無い」などということかもしれません。ジハードだから自爆テロも殉教であり尊い、という考え方には「理性」はないでしょう。理性を持ってくれればそれがわかるでしょう?と言いたいのではないかなとちょっと愚考。


 一つの価値観を墨守することは純粋で美しいことかもしれませんが、その価値を持つ人間の拡がりを制限することになると思います。玉をいくら磨きぬいても、それは玉でしか有り得ません。その玉が、うまくすると何か他のものに変わり得ることを期待するならば、それこそ自分の理解し得ない「他者」との隣接という多元的社会に可能性を見る態度は、私も「あり」だと考えます。
 でも同時に無際限の譲歩からなる相対主義は、それ自体愚かな帰結しかもたらさないように見えます。相互の自律というものを尊重すればこそ、自らの譲れぬところで自分を律しておく、そしてその拠るものにおいて他者と合意を形成していく、そうしたぬるさが案外重要なことにも思えるのです。
 そこらへんの共通理解が深められれば、今後の多元主義的社会と言うものも構築し易くなるんじゃないかと考えています。いきなり理想的な多元主義を突きつける人たちも散見しますが、それにはちょっと同意できないと思うのです。

付記

 迂遠ですが、実はここに書いた内容は昨日の続きです。賛意を言ってくださったトラックバックもいただいております。ありがとうございます。で、ちょっと意を強くしまして、その脈絡で続けて考えてみました。