コメントへの応答

 幸いにもid:macskaさんからトラックバックいただきました。
 詳しく差別について語られるのは、いずれ氏の本家ブログ(http://macska.org/)でなさるとのこと。拝見するのをゆるゆるとお待ちします。

ちょっとだけ応答

 「Jap」と言われたというのは、民族差別の例ですよね。国籍としてならば、「日本人」というのは世界中でかなり優遇されていると言ってほぼ問題ないのでは。もちろん日本の中で日本国籍を持たない外国国籍の人(日本で生まれ育った在日コリアンでも、滞在資格を持たない人たちでも)と比べたら明らかに強者だし。

 「シチュエーションを限定せずに」と私が申しましたのは、それが日本国内という限定でなら「日本人」が強者であるのはもちろん明らかで(主権者ですし)それを言わないと…と思ったからでした。でも本国人が外国人より強者というのはどこの国のことでも大体当てはまってしまうので、例としては「日本」を持ってきた意味があまりないように感じます。またどこか外国での話でも、日本人が常に強者側というのはおかしいのでは…という思いがありましたウェノムとかイルボンノムとかチョッパリとかわりに平気で言ってくるあの国のことだけではなく)。これは感じ方の違いでしょうか。

たかが赤の他人の侮辱発言がそれほど大きなダメージを与えることが可能であるような、社会の在り方そのものを変えること。つまり、「社会的地位の低い相手に対する侮辱発言は差別になるからやめよう」ではなく、「かれらの社会的地位をおとしめているような社会の在り方を変えよう」でなければいけない。

 社会の在り方を変え、弱い立場の人の社会的地位の向上を目指す姿勢にはそうですねと賛意を。でも私は、ヘイトスピーチヘイトクライムは立場の強弱と関係ないところにも転がっているように見えていますので、そこらへんでちょっともどかしく思えてなりません。先日も引用したこういう記事もあります。


WA州14歳アボリジニ少女、暴行行為で起訴 人種憎悪犯罪

パース2日ーWA州の人種憎悪に関する新法律のもと、アボリジニ少女(14歳)が2日、人種憎悪による罪で公判に出廷することになり、同法律が導入されて以来初めての被告となる。

少女は、4月にWA州のGoldfields(ゴールドフィールズ)地域のアボリジニではない女性(19歳)に暴行を加えた3人のアボリジニ少女のうちの一人。14歳の少女はその後、人種差別的な発言をし、中傷罪で再度逮捕された。

同少女は2日、Kalgoorlie(カルゴーリー)児童裁判所に出廷する予定。WA州裁判所では、今回が人種憎悪に関する新法律のもと起訴された最初のケースとなる。(AAP) 
(オーストラリアニュース  08月02日 10:46)


 いずれにせよ、お急ぎにならずじっくり本サイトでお書きください。読むのを楽しみにしております。

社会的属性と個人の事情を結びつけて語ること(差別)

 sk-44さん@地を這う難破船の「■何が「差別」であるのか(――検証)
 傾聴すべき御意見(長いんですが…)

結論としての要約――何が「差別」であるのか。それは。


「履歴的な社会的属性」としてのAに対して「個人の事情」に属するBがあるとき、「AはB」「AだからB」とする定式化した発想/意識認識/価値観とその命題化におかれる、「is」「だから」という関数の存在と入出力、その結果的なる表出こそが、差別に該当します、少なくとも、本件の場合においては。


AやBに如何なる内容が代入されるか、そのことは一義には問題ではない。AとBを単線的に、ないしはイメージにおいて直結させる「is」「だから」という関数としての発想と、関数におかれる入出力としての命題設定ないし命題化それ自体が、差別の機能を果たす。


私のスタンスを改めて示すなら。「差別」とはそれを存在させる歴史的な社会構造と現実の社会的な文脈にフィードバックして問われなければならない問題です。明文化されざる事実性としての差別の構造が現行の社会に組み込まれている。現実の個人が毀損されたときに「社会」の事実性をもって応対することを、個人たる私は一概に良しとはしたくない。
(前後大幅に略)

 ご意見ごもっともというところも多いのですが、(たぶん)私とはやや違った観点でもこの差別という問題を見られているというところでいろいろ啓発されました。これは何となくいろいろひっかかっていた向きには必見かと愚考。


 以下まったくの蛇足


 顕在的に流通する「自己責任論」というものがいつから出てきたか曖昧なのですが、個人的印象としては「ネオリベラリズム」だのといったものが聞えてくるずっと前からではないかと感じています。そして密かに思うのは、この論調は制度論といいますか社会(構造)論でとにかくいろいろなものが語られてしまった風潮に対するアンチ、カウンターとしての意味があったのではないかと…
 たとえば殺人事件などの被告に対して「社会が悪かったからこの人は罪を犯してしまった」的な言説が強かったとして、そればかり突き詰めると本人の責任は消えてしまうだろうと対抗して言うようなものですね。


 社会構造に還元して語ってしまうのにも程度はあろうということでしょう。そしてもちろんすべてを自己責任に押し付けるのも間違ったことです。たとえ面倒であろうとも、その中間のどこかにふさわしいポジションを求めてケースごとに考えるというのが正しい態度なのでしょうし、それが認識として共有されるまで制度論と自己責任論はせめぎあいを止めることなく続けるのかもしれません。


 sk-44さんの書かれたものを読みながら、何となくそういうことが思い浮かんできましたので記しておきます。