送別
今日は相部屋の同僚の送別会です。この三年間、異分野の話とかいろいろ刺激にもなりましたし話していてすごく楽しかったです。得がたい人がまた一人去っていくのは悲しいですが、栄転ですから笑顔で送り出しましょう。いろいろ日記のネタにも使わせていただいたんですけど(笑)
ほんとうにありがとう。
コメントを補う意味で…
今朝、macskaさんの「■侮辱しても差別にはあたらない集団」という記事を読ませていただき、そこにコメントさせていただきました。
この記事で語られている内容(詳しくは上記リンクから辿ってご覧いただきたいのですが)を私は、社会的地位・階層の一定の認識が世間ではあるだろうということ。その位置が下の者から上のものに対する蔑視発言は差別ではなく(下→上は差別できないから)、上の者から下の者への侮蔑はそれが些細なものであっても差別的な意味が含まれ易いということ。…だと受け取りました。
これは一見分かり易い差別的侮蔑とそうでない侮蔑の切り分けに見えますが、二者の上下関係?は「世間」で決まっているだろうと(言い換えますと常識でわかるだろうと)考えてしまっている、まずその点で危ういもののように思えました。
世間なんて自明なものではなく(そこに大まかな共通性はあっても)勝手に皆が自分で作り上げるものではないかと考えますし、不確かな「常識」にしか頼れないならば「上―下」関係などいつでも自明というわけにはいかないだろうと思うからです。
ちょっと考えてみても、たとえば「男>女」という常識があったとして、同時にその「男」が卑しめられるような職業で「女」が顕職の場合、どちらが上でどちらが下などと誰にすぐに判断できるでしょう?
次に考えたのは、こういう風に捉えた構図では「自分の方が上と思ったら気を使ってあげるべき」とでもいうような倫理が働きそうなのですが、それは絶えざる相手の値踏みと申しましょうかそういう気の遣い方を要請して、結局上だの下だの考えない付き合い方を阻害してしまうんじゃないかということです。
もしかしたらそこは杞憂なのかもしれません。でもさらにそこで思ったのは、お互いに上とか下の認識が一致したとして、それは立派に「差別構造の完成」になってしまっているのでは、ということです。
この人のポジションは自分より上と片方が思い、もう一方が相手の方が下と思うところでいつも一致するようならば、そしてそれが世間的に常に動かぬ認識になったならば、それを私たちは差別的社会と呼ぶんじゃないでしょうか?
そしてこういうようなことの前に、私が真っ先に疑問として書き込んだのは
昔中学の社会科の先生がアメリカへ旅行して酒場で「jap」と言われた話をしてくださいました。その話を聞いて正直ぞっとしたのを憶えています。シチュエーションを限定せず「世界のどこに行っても日本人という国籍に守られた人々こそ、侮辱しても差別にはならないのだ」なんていう言葉はあまりに不用意では?
ということです。なぜ先にこの表現を書き込んだのかということについては、些か理由があります。私の過去記事でも日韓関係に関することが少なからずあるのはお読みいただいた方には明らかでしょうが、2001,2年頃からの私の関心の中心は多く日韓関係・日韓の歴史問題あたりにありました*1。
当時いろいろ書籍を買って調べたりネットで意見を交換したりするうちに、韓国に対して(あと北朝鮮や中国に対しても)「気を遣うのが当然だ」と考えている一群の人たちと接触が多くなりました。それはどうも「日本がかつて彼らに対して行った不当な行為」ゆえに贖罪的に彼らに対すべきと考えている人たちのようでした。私には60年前の私が生まれてもいないときの自国の行為に自分が責任を持つべきだと考えるのが不思議に思われましたし、何より韓国でも中国でもそういう国々の人と「対等の議論はしてはいけない」と言っているように感じられました。そんなバカなと思いました。
で、そこらへんに関してもこの日記ではたびたび書いてきたわけですが、私には彼ら贖罪派(仮称)が韓国や中国などを「悪いことをした人たち。可哀想なことをした人たち(の子孫)」として固定的に考え、さらにどこか「気を遣ってあげなければならない人たち」として逆説的に「下に見ている」という気がしたのです。次の引用のような感触でした。
今日本で、アメリカの悪口を言ってもイギリスを批判しても、アメリカ蔑視だイギリス人差別だと言う者はいない。それが中国となると、それ中国蔑視だ中国人差別だと金切り声を立てる者が現れる。なぜか。当人たちもはっきり意識していないだろうが、彼らの心中には、日本は中国より上だ、中国は弱い国で中国人は弱い人達だ。「自分たちが守ってやらなくては」という思い上がりがある。その思い上がりは、戦前シナ人を軽蔑した日本人と紙一重、いや同じ穴のムジナだ。なまじ良心づらしているだけ気色がわるい。
(高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』より)
macskaさんがそういう人たちだとは申し上げる気はございません。でも記事を読ませていただいて、この構図を真っ先に思い出したのでした。だからこそ質問の冒頭が(ちょっと細かいことに拘泥しているような)上記のものになったのです。
私のコメントの続きは
またこのエントリーでは「世間」が自明のものとして語られていますがこれにも疑問です。立ち位置によって世間も違ってみえてくるでしょうし、かなりそれは相対的なものでしょう。そして、その世間がいかなるものであれ、そこから「ある一面の属性だけ」で切り取られてしまえば(たとえば「政治家」でも「主婦」でも)それは残りの側から不当な蔑視=差別的侮辱を受けることはあると思いますので、この前後に書かれて納得できていた「蔑視発言をめぐる議論」ほど賛同できないという感想です。
となっていますが、家に帰ってきてから読み直してこれはわかり難いものかもしれないと感じまして、ここで記事を書いて補遺にさせていただこうと思ったわけです。
そしてここの最後もコメントの最後と同じ言葉で閉めさせていただきます。
お帰りになられてからの続きに期待します
*1:もしかしたら今は他の関心の方がややもすれば上になっているかもしれません
なぜエセ科学をネタとして採り上げる方々は「タバコ有害論」を採り上げないの?
[書評]名取春彦・上杉正幸『タバコ有害論に異議あり!』洋泉社新書y 166
この本は、ちょうど私が大学に入学した直後に読んだスタニスラフ・アンドレスキー『社会科学の神話』日経新聞社、やパオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、同『反社会学の不埒な研究報告』二見書房、とか谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、を読んだときと同じような面白さがありました。
それは正しい理屈・論理でいいかげんなエセ研究を叩くといったような知的興奮で、ちょうど水伝などのエセ科学を科学関係の人が競って採り上げて批判した気持ちにつながるようにも思います。
著者はタバコ自体の有害性の認識に文句をつけているのではありません。タバコだけを過度に悪者にしているということに異議を申し立て、さらにその「タバコの害(特に周囲への健康被害)」を喧伝していい加減な調査で恣意的な結論を導いている(と著者が考える)元国立がんセンター疫学部長の平山雄氏(の仕事)をメインに批判しているのでした。
ただどうも著者の名取氏は少々斜に構えた書き方もなさる方で、新書とは言えもう少し余計なところ(思いつきの例示とか強弁に聞こえるところ、あとちょっぴり陰謀論風の個人攻撃みたいな記述…)を削ってシンプルに書かれた方が説得力が増したのに、という感も受けました。もしかしたらここで新書一冊ぐらい書いても、「世の中」とやらの不確かな「タバコ有害論」(というかその印象)が変わるわけはないかぐらいに思っていらっしゃるのかもしれません…
俎上に上げられている平山雄氏は、当時の厚生省と協力して1966年から1982年までの16年間、全国六府県二九保健所管区内の二七万人(の四〇歳以上の住人)のコホート調査を行い、死亡者を死因別に分類して生活習慣と病気との関係を追いました。途中経過は逐次報告され、「日本の禁煙、嫌煙運動の理論的裏付けは、ほとんどがそこから出てくるものである」と著者は言います。また喫煙とガン・リスク評価や受動喫煙の害については今なお最も引かれる典拠であって、「今でもタバコの健康への影響を論ずるときに論拠として引用されている」ともされます。
すでに故人となった平山をいま批判することは意に反する。しかし、平山は日本の嫌煙活動家たちの教祖的存在であり、嫌煙活動のほとんどは平山の研究に依拠している。平山個人を批判することは望まないが、その平山の研究というものがどういうものであるかを明らかにする必要はある(本書p.34)
第1章つくられたタバコ有害論の、平山研究批判が書かれている第二節の目次は次のようになっています。
2 タバコを吸うとガンになるという常識は意図的につくられた タバコが有害でないはずがない/タバコ有害論の根拠となった平山雄の大規模疫学調査/タバコは有害であるという結論が先にある/タバコの有害性を印象づけるためのトリック/都合の悪いデータは隠し、都合のよいデータだけを取り上げる/タバコ肺ガン説の不透明な統計データ/問題がある肺ガンの扱い方/受動喫煙被害理論の正体/統計学のルールを無視した研究が根拠/タバコ肺ガン説は100年前でも通用しない/肺の比較写真に大きな誤解/「スモーカーの肺は真っ黒」はウソ/学会も同業者組合に成り下がった/データを公平に扱えない学者/科学とは道理であることを忘れてはいけない
この中から一つ二つ内容の概略を申しますと、たとえば平山研究で男性の毎日喫煙する人数は10万人以下で、その中で喉頭ガンで死亡した人数は6〜7人以下、ほんの数人の死亡数から強引に死亡リスクが計算され、小数点以下まで数値が出されていること。またこの喉頭ガン死亡率を普通にパーセンテージに直すと、毎日喫煙者で0.0061%、非喫煙者は0.003%、確かに二倍の死亡率にはなっているけれどこのように微細な割合の数字を比較したものに果たして意味があるかということ。あるいは平山研究には隠れたデータがあって、休煙日を設けて喫煙する人の方が、完全に禁煙している人よりもガンになるリスクが低いという結果が出ている(そしてそれは公表されていないという)こと。またタバコの煙は水蒸気やタールの粒子でありこれらは肺に蓄積しない。肺に残るのは大きめの異物や尖った異物(アスベストもそうですね)で、肺が黒くなった写真は炭や石炭などの固形の黒色粒子か煙に含まれる煤を吸った人にできたと考えられ、これは空気汚染の結果と見るべき…とかいうことなどが書かれています。
私は医学的知識に乏しいので隅から隅までここに記された記述が正しいとか間違っているとかいう判断は残念ながらできません。しかしこの著者の言っていることで、理解できる部分に少なくとも論理的誤りはないように思えます。ぜひともこれはそちらの分野にお詳しい方に出馬いただいて、どのくらいこの本の理屈が正しいのかご判断いただきたいものです。
繰り返しますが、本書は決してタバコは有害でないということを言っているのではありません。ただ現在の『タバコ有害論』ではいい加減で恣意的なリスク評価がなされ、『タバコ(だけ特に)有害論』というような様相を見せているのではないかと、これはそういう風潮に流された研究者たちへの著者による挑戦状にも思えます。
そしてエセ科学を題材にブログなどで記事を書いていた方々は、もし興が引かれるならばこの(どこかあやしい)『タバコ有害論』に挑んでごらんになってはどうでしょうか? 「敵」は勢いがあって大きいほど面白いものです。水伝などという限られたビリーバーの話ではなく、これは日本中が、あるいは世界の先進国のかなりの部分が嵌っている(かもしれない)エセ科学の可能性があるのです。
わくわくしませんか(笑)
と、書いてアップしようとした時に、夕刊フジBLOGの
「タバコ有害論に異議あり」名取春彦・上杉正幸著 を見つけました。