道徳的詐術

 G★RDIAS:「本当は、できるでしょう?」の原初的風景より

たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。


目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。


それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。


このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。


仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。


私は、そういうことを「まずは」嘘をつつみ隠すことなく言おう、と提起している。


これは、「正論の倫理学」なら主張するであろう、「その200円を募金すべきだ」という主張とは全く違う。


ただ、私は「200円を募金「できなかった」のではなく、「しなかったのだ」」というふうに言うべきだということなのである。それは、「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならないことを、論理的には要請する。もちろん、「どのように」受け入れるべきかは議論されるべきだと思うが、事実を隠ぺいすることは許されないであろう。

 この一連の文の流れには幾つかの詐術があると考えます。
 どこにでもいる「コンビニで200円のおやつを買おうとした人」がこの話ではいつの間にか「嘘つき」にされ、さらにはいつの間にか「(間接的にも)人殺し」にされてしまっています。ありふれた日常の状況からこの特殊な帰結が簡単に導けるはずもありません。こういう時にはどこかに騙しがあるのです。


 まずこの状況設定自体にはそれほど無理なところはありません。コンビニに募金箱は大抵あるもの。そこに200円でおやつを買いに行き、おやつを買って帰る。募金はしないで。これは普通に皆が行っている行為です。
 ここでx0000000000氏は「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」の言葉(貼り紙)を持ってきて仕掛けにします。そしてその上で

仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。
すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。

 端的にこれは「言えません」。法的のみならず倫理的にも。思いつきの極端な仮定で、あまりに乱暴な話です。
 私がコンビニに持っていった「その200円」がなかったばかりに一家四人が死んだという仮定。これがまずあり得ないことを言っています。もしそこをアクロバティックに結びつけ得たとしても、そこで私が「その200円」をアフガニスタンのその家庭に贈ったために足りなくなった200円で、パキスタンの子供が飢えて死んでしまうかもしれません。それではともう200円用意して子供に贈ります。すると今度は私がその400円をまわせば助かったかもしれないミャンマーの老夫婦が死んでしまうのです。
 こういう無限責任をふつう人は負うことはありません。だからそれを「間接的ではあろうが、私は人殺しである」とは表現しない(できない)のです。


 「アフガニスタンの家族に対する言及」と「その200円」という書き方で、問題をまるで「眼前で死んでいこうとしている人」を助けるかどうかの倫理判断と同等のものにされているようなのですが、これが詐術です。眼前で死んでいこうとしている人は今ここにいないのです。
 そして「募金できなかった」と言っている人も(このケースでは)どこにもいません。だからそれはわら人形になってしまっています。コンビニに行っておやつを買う人は普通「募金しなかった」だけで何の良心の呵責を持つものではないのですから。誰も事実は隠蔽していません。


 こういう設定とか倫理判断とか、私は自分自身に問いかける言葉としてはありだと思うんです。その貼り紙を見て自分の頭がアフガニスタンのその家族に向いた場合、そこで敢えてごまかしてしまいそうになる自分を「嘘つき」と思い、「間接的にも人殺しだぞ」と自分に叱咤するというような具合に…


 でもこういう風に「限定的な(特殊な)問題」を他者につきつけて、「不作為は罪」であるかのように言うのは道徳的詐術だと思います。ここでは単に思いついた例を挙げられただけなのかもしれませんが、こういう詐術にナイーブに悩んでしまう人はいくらも出てしまうと思うのです。
 その人が今、そのアフガニスタンの家族で気持ちを一杯にしないことを誰がどんな権利で責めることができるでしょう?その人はおやつのことで頭が一杯なのかもしれませんが、もしかしたらダルフールのことで心を悩ましているのかもしれないではないですか。 どちらにせよ道義的判断は本人の問題であって、それに対して「人殺し」だの「嘘つき」だのと言うのは極めて強い他者への介入です。これは「正論の倫理学」ではないなどと言ってられないですよ。


 そしてそういう決め付けの論法、相手の心情・動機を(乱暴な)推測だけで済ませて、相手の個別性やライフヒストリーを全く考慮しないような論法に対して、id:font-daさんは(この記事に対してではないですが)疑問を呈されているのだと私には思えます。


 (翌日に補遺があります⇒
 (こちらにも関連の話題が⇒※※

初めての集団生活(SECRET LIFE OF THE CLASSROOM)

 BS世界のドキュメンタリーを録画で視聴。シリーズ『欧米の教育現場から』の3つ目、英フラッシュバックテレビジョンによる昨年制作のドキュメンタリー作品「初めての集団生活」です。
 舞台はイギリス南部バースという町のモーランド幼児学校。イギリスでは満五歳から義務教育が始まりますが、幼稚園の他に公立小学校にも就学前学級(レセプションクラス)というのが併設されているそうで、この幼児学校もそうした4歳児を対象とした就学前教育制度の下にあります。(年間65万人がこの制度の対象とのこと)


 番組では三、四人ほどの子供に主に焦点をあてながら、この学校で4歳児に何が学ばれるのかということを映していきます。ナレーションで幼児学校の先生が数回「まとめ」みたいに話しますが、ほとんど映像で構成された番組でした。
 この幼児学校の目標を視聴した限りでまとめますと

1 集団生活になじむ
2 規則を守るということをおぼえる
3 基本的な生活習慣・自立的行動を身につける

ということになるでしょう。簡単そうで難しいことです。入ってくる児童はそれこそ性格も家庭環境も千差万別で、みな「個性的」なのですから…
 モーランド幼児学校で貼り出されている「規則」は次のようなものでした。

OUR GOLDEN RULES
・Follow instructions first time.
・Be kind to everyone - don't hurt others.
・Look after everyone's property.
・Use a quiet voice.

 私たちの黄金律
・まず最初は指示にしたがいなさい
・みんなに優しく―ほかの人を傷つけてはいけません
・みんなの持ちもの(所有)は尊重しなさい
・静かな声で話しなさい

 日本の初等教育でよくある「〜ましょう」とかいう呼びかけ形式ではなかったですね。
 ただこちらの先生たちは「叱り付ける」という態度はみせませんでした。意地悪にみればカメラが入っていたからだろうとも邪推は可能ですが、そういう指導側の感情は生に出さずにコントロールするというのがポリシーであったように見受けられました。

自分のことは自分で

 最初にフォーカスされたのは、アイザックという男の子。この子は一人で着替えるのが苦手で、幼児学校の教室では「自分のことは何でも自分でやる」ということになっているのですが、うまくできずにしまいには感情を爆発させたりいじけたり…。また友達関係をつくるのも下手で、ともすると先に手や足がでてしまうようでした。
 アイザックはつらい過去を抱えていて、一年ほど前にお父さんが自殺して亡くなっていたのです。彼のお母さんは着替えなど時間がかかることを「してあげてしまっていた」のを反省していましたが、彼が「自分がしっかりしなくちゃ」と無理に大人になろうとするのが不憫だと思っていて、それがかえって彼の自立を遅らせる結果になっていたのかもしれません。
 「アイザックは人の心の動きにとても敏感です。でも彼は好きな人がいなくなることに怯えを感じています」


 彼に対する指導の基本は、まずやる気をださせることでした。できたら褒めたり、褒める機会を与えるために少しずつ仕事をさせたり。そして次に人には優しくねと言い聞かせながら、ちょっと暴力的な行為をしたときなどにはまず言葉で表現することを繰り返し学ばせようとしていました。「Please don't do that」とまず言いなさいと。またそのため、何があっても先生は子供の言い分を言葉で聞こうとしています。そして理由を聞き出して、何が問題だったかを諭し、たとえば規則を守らなかったということを自分で反省できるようにしてあげています。
 その子供との会話で「I'm Sad」と何度も言っていたのが印象的です。先生が悲しいからやめてね、という説得の方向です。これは学校のポリシーだと感じました。

エネルギーの発散に方向付けをする

 ここで出てくるのはディランという「乱暴な男の子」です。
 ナレーションの先生が、4歳ぐらいの児童は男性ホルモンの分泌が影響してエネルギーの発散を身体が求めてしまうようになるものだとおっしゃっていました。自分の中の怒りやフラストレーションを抑えることができないでいるのだから、きつく叱って抑えさせるのではなく、まずそれを正しく発散できるように導くことを考えようとされていたと思います。
 ここでも「I'm very sad to see this.」みたいな言葉が先生から何度も言われていました。

 自分が何をしたかということと、してはいけなかったということをわからせる。
 叱りつける必要はありません。静かにはっきり説明すれば、子供たちは理解してくれます。
 彼らが学び取るまで何度でも繰り返し話すのです。

 一学期の終わりごろから子供たちの間では「ひみつの話」(往々にして性に関するもの)が出始めました。モリーは早熟で大胆なことを言う女の子。彼女がジョシュアに「(大人になったら)セックスさせてあげる」と言ったので、ジョシュアはみんなの前でそれを繰り返し言ってしまいました。
 先生は二人を呼び、モリーにどういう気持ちでそれを言ったのか話させます。そして彼に「セックスのこと言わないで。冗談だったの」とお願いさせるのでした。これを受けてジョシュアは、「知らなかった…良くないって。わからなかったんだ、いやだってこと」と、一応納得。彼はこの件で何かを学んだようでしたが、それは「女の子の話を真に受けても、あとで冗談だったで済まされる」とかいうことでないことを願います…。

♂ ぼくのパパのおちんちんはこのくらい(15cm〜20cmを示す)
♀ うちのパパはこんなに大きいわ。ほんとよ(30cm〜40cmぐらいを示す)
♂ ぼくのパパだってこんなに(40cm〜50cmにエスカレート)
♀ うちのパパなんて(両手を広げて)。本当だもん(1m以上)

 この時期の子供たちはトイレや身体の話が大好きです。
 性的な話の大半は気をつけなくていい冗談。
 見過ごせないものは、教師には経験からわかります。

友達との関係を学ぶ

 小さいときから一人か二人の特定の友達と遊んだことのないグレースは、女の子たちのグループ、遊びの輪になかなか入っていけません。また彼女は口数が少なく、グレースのお母さんが彼女に「今日は学校で何をしたの?」と尋ねても「いろいろ(activities..)」としか答えません。自分を表現することに慣れていない感じでした。
 あるときグレースが泣いているのに気付いた先生はその理由を聞きます。お店やさんごっこをしていた二人の女の子と一緒に遊びたかったのに、加わることができずに悲しかったのでした。
 先生は「そのためにはどうすればいいのか」を考えさせる方向で指導しています。このケースでは言葉に出して誘ってみるという行為が必要だったとグレースに見つけさせます。そして二人の女の子とコミュニケートさせ、一緒に遊ぶことができたという成功体験を覚えさせていました。

 小さい時に友達をつくる方法を学ぶのは大切なことです。
 いろんな子と仲良くやっていく方法、好きな子を選ぶだけでなくみんなに気を配って、友達に合わせることを学んで欲しいのです。

褒めたりご褒美を出したり

 「fantastic」とか、何か良いことをしたら大げさなぐらい褒めます。時にはみんなの前で褒めたり、ご褒美に小さな恐竜のフィギュアをあげたりしています。このフィギュアが貯まれば特別な自由時間を与えられたり、校長先生のところへ行ってシールをもらえます。「Very Good!」とか印刷してあるそのシールを胸に貼って、彼らはちょっと得意げです。こういうふうに達成感を学ばせているのでした。
 また、ちょっと優しさや落ち着きが出てきたディランに児童会の委員の役を任せたりしていました。ただ、初めて児童会に出たディランは落ち着かず、悪ふざけをして注意されてしまいます。クラスに戻ってきてそのことを正直に言ったディランに、先生は注意されてふざけるのをやめたのですかと問います。やめましたというディランの言葉に「すぐに注意に従ったのなら悪くはないわ。一度言われて直すのは、大切なことなの」と諭し、彼の胸に「I followed a golden rules..」と書いたシールを貼ってあげます。
 「お母さんもきっと喜ぶわよ」という先生の言葉に、ディランも嬉しそう…

最後の先生の言葉

 大きくなったら、あの子たちは私たちのことを忘れてしまうでしょう。
 それでいいんです。
 ただ、このクラスで学んだ集団生活の規律や人との接し方が、彼らの人生に役立つことを願っています…