基礎のイメージ

 ちょっと昨日のエントリーは一般化が過ぎましたか…(笑)まあ「何であれ基礎が大事、というのは本当なのか?」という問題提起がしたかったので、その意味ではいろいろ考えていただけたようで、良かったという感じです。
 こういう一般論を見たとき、ちゃんと反論する気になるときはやはりそれぞれが自分の知る分野のことを頭に思い浮かべて、そこから違うと思ったりするのでしょうし、確かにそれなりに「基礎」が重要と思われる分野もあるということでよろしいかと…。ただ、そこのその分野の「基礎」はどういうものなのかという問いに、それを知る人が二人いれば二通り、三人いれば三通りのイメージはあるんじゃないかという気もします。大まかな「基礎」についての了解はあっても、決してそれが確固としたものではないということは言えませんか?(←まだ言うか)


 何につけ「基礎」とおっしゃる方の背後に、私は「きちんとした積み重ね」イメージがあると思っていました。それゆえのハノイの塔の譬えだったんです。一箇所でも基礎的部分について下を踏まえない逆の置き方があればアウト…というようなものです。実際はもっといい加減な憶え方をしたりしているものではないかと思うんですね。基礎って言い方自体が妙に順番というか「踏まえ」を意識したものでなければいいんです。
 私はいきなり基礎より上ができる・わかるとかいうのは、別に天才じゃなくてもOKだと思ってます。向き不向きまで才能だということでしたら天才って言えるのかもしれませんが、いろいろなところに入り口があって、取っ付き易いところ、興味を持てるところから入ればいいという感じです。さすがに全体の鳥瞰ができるほどになるには、あそこもここもというような量的な押さえが必要でしょうが、それがはっきり質的な「基礎」というものなのかは問い直してもよいのではないでしょうか。


 さらにもうちょっと敷衍しますと、基礎を重視するという考え方のあたりには「樹木」イメージがあるんじゃないですかね。根っこがしっかりして、幹がしっかりして、それで初めて葉を繁らせて花が咲き実がなるというイメージです。
 でも同じく過去からの経緯を描くのでも「河川」イメージでしたら、それは必ずしも「一つの基礎」を要求しないと思うんですよ。そこで重視されるのはあくまでも今あるところの状況であって、いろいろなところから流れ込んできたものは全部実になっているというイメージです。
 じつはちょっと前にfinalventさんが「起源論」に毒づいておられた(笑)あたりのところからいろいろ考えておりました。起源論はあくまでも樹形図モデルだろうと思うんです。ところが河川図モデルを採用してみると、それも確かに源流探しの旅はできるのですが、源流にたどり着いてみれば何かぽたぽたしたたっているだけ…みたいなことでしかなかったりするんです。
(余談になりますが、ヨーロッパ言語学は欧州各国語に(たまたま)祖語を持っていたということもあって学問的枠組みがこの「樹形図モデル」寄りになってしまったのではないかと私には思えます。その起源探しの枠組みを「日本語」にあてはめてもうまくはいきません。日本語は典型的な河川図モデルの言語だからです。それと同じようなモデルの再検討・洗い直しがいろいろなところで必要になるんじゃないかと今漠然と思っています)


 まあちょっと肩の力を抜いて、「基礎」なるものの洗い直しが必要だという程度に考えていただければ…。少なくともそれが本当に質的に基盤とするに足るものか、あるいはただそれも必要という感じにすぎないのか、そうしたところを見直すだけでいろいろ見つかるものはあると思います。
 そしてそうした基礎の見直しが本当にできるのは、「専門」を名乗ることができる人なんじゃないかなとも思えるんですね。

たとえば

 「基礎」とかいう漠然としたものに妙に拘ってしまうのは、私にはどうしても「自分の知らないところ」で正しい道があるに違いない、という気持ち(信憑)が働く時の方が多いように思えます。
 釣りをしてみたい、と素直に思ってやろうとしても、どこからか「釣りはヘラブナに始まって…」とかいう基礎の話が出てきて、そういうものかと少し怖じるとかいう感じでしょうか。小学校の高学年の算数だって、むしろ代数の発想があった方が楽に考えられるなんていうことは実感されている方もいらっしゃるのではないかと思いますが、どうしても小学校の算数ができなければ中学の数学はできない、というような「基礎」の発想をお持ちの親御さんの方が多いようにも感じますし。


 正しい道筋でなければ正しい結果に至らない、というこだわりは却って邪魔になる時も多いと思うんです。
 たとえば教育再生会議の発想
 教育再生会議:親向けに「親学」提言 母乳、芸術鑑賞など
 「親学」なんかまさに「正しい育て方」のガイドラインみたいな発想じゃないですか。子守唄を歌ったり、母乳で育てたり、演劇鑑賞させたり…それはそういう育て方で成功した人もいるかもしれませんが、その道筋だけが推奨されるっていうのはどうでしょう?
 それでもおそらくこういうマニュアルを求める方々はいらっしゃるのでしょうし、私にはそういう方々が「何でも基礎が大事」とお考えの人たちと重なっているように思えます。その基礎の「正解」を示してもらって、それに従えば「うまくいくだろう」というどちらかというと人任せの発想ですね。一概に責めるわけにも参らないとは思いますが、それだけでもないということは頭に入れていて欲しいものです。


 で、こういう向きには河川図モデルの有効性を言うのですよ。今、求められる(というか望ましい)状態を設定するとして、そこに至る道筋はむしろ問わない(問えない)という考え方ですね。なにも一つかそこらの正しい基礎に基づかなくても、「結果良ければすべてよし」のちゃらんぽらんの勧めです。


 むしろそれが「基礎の良さを競う」みたいな対案路線になりますと、それは同じ発想どうしの綱引きになるだけです。ローティーンの頃から尾崎豊を聞かせましょうみたいな(笑)
 それはまるっきり同じような変な考え方ということなんじゃないかと…