「基礎が大事」という信仰について

 世の中には何につけ「基礎」というものが大事で、基礎をやらずに応用はできないとか固く信じている人が多いように思えます。特に自分の知らない分野のこととか、お勉強関連についてそう思っている人が意外にも多いと見えるのです。私が一番そう感じたのは、学部の時から数年間やらせてもらった中学生相手の学習塾の講師の時だったかもしれません。父兄の方々とたまにお話すると、必ず皆さん「基礎をお願いします」とか「ちゃんと基礎が身につけば」とかいう話ばかり。どちらかというとばりばり進学のための塾というより補習目的で子どもたちが通っていた塾でしたから、まあそうおっしゃる方が多かったのは当然かもしれませんけど。そしてそういう方々には「大丈夫ですよ」と優しくこたえていた「人が悪い」自分がいました。


 本当は私は基礎がどうのこうのというのにあまり関心もありませんでした。それこそ基礎の基礎、漢字を覚えるとかアルファベットを覚えるとか数字で計算ができるようにするとか、そういうことはもう前提として当たり前にやらなければいけないことです。でもそこから先は、一人一人の子にとってそれぞれ別の道が分かれているのではないかと思っています。


 そういう「基礎が大事」信仰(←当時私は密かにこう名づけていました)をお持ちの皆さんは、自分がどういう具合に物事を覚えてきたのか、どうやって勉強して頭に入ってきたのかということをお忘れなのではないかと感じます。それを憶えていないから、何かハノイの塔みたいな学問イメージだけに捉われて、まず基礎となる土台を置いて、その上に応用を置かなければルール違反になるとでもいうような具合でお勉強を考えてしまっています。
 そしてさらに見方を変えますと、「基礎」さえしっかり身につけばあとは如何様にも勉強を進めることができるだろうという「間違った期待」もそこに感じられたように思います。


 もし万人向けの「基礎」なるものがあったとしても、それが皆にとって面白いものとは考え難いです。砂を噛むように反復訓練だけやらせて、それで成功体験につながって万々歳ならいいのですが、それで勉強がいやになるとか興味がなくなってしまうならばそれはもう本末転倒としかいいようがないです。
 また、確かに小中学校あたりの学年ごとの単元というのは、それなりに順を追った基礎的積み重ねという側面はあるでしょう。でも本当は子ども一人一人にカスタマイズして、興味があればどんどん先を見せるとかつまづけばちょっと戻るとかしてその子にあった学習ができればそれが一番いいんです。単にそれをする時間や労力がとれないという多分にコスト的な問題からそれが行われていないだけです。


 味覚でも「最初から本物を食べさせた方がいい」みたいに言われるじゃないですか。さすがに多くの子どもはいきなりすごく応用的な学問に出会わせるとちんぷんかんぷんかもしれませんが、それでもちょっとづつ先の方の「すごい」ところを見ておけば、興味関心が持続するという子が少なくないと思います。そして何よりその面白さを学ぶのが勉強では大事なのです。苦行をやらせたいわけではないのですから。


 私が小学生だったある日、グラウンドに石灰で線を引こうということになって、手押しの線引き車とメジャーを持って皆で向かいました。そしてそこで直交する線を引かなければならないということに気付いて、さてどうしようと皆で頭をひねったのです。私はそこでメジャーから12メートル分だけ紐を引っ張り出し、最初の3メートルのところと7メートルのところを人に持ってもらい、12メートルの端っこをメジャー自体を持つ人に渡して「ピンと引っ張って」と言いました。もうおわかりかと思いますが、3メートルのところを持つ人のところにできた角がちょうど90度になっていますから、そこでそれに沿って直交線が引けたというわけです。
 代数を教えてもらっていたわけでも、ちゃんとピタゴラスの定理を学校で習ったわけでもありません(あれは中学ですし)。どこかで見て憶えていた直角三角形の辺の比(の一例)を手がかりに、そこで工夫・応用ができたのです。この一件があってからは私は知識ってすごいなあと、わりに悪食にいろいろな分野を知ることが喜びになっていました。それぞれにこれに似た「応用の喜び」は皆さんおありになるのではないでしょうか?
 それはこつこつ基礎をやっていれば…というのとはちょっと違った次元にあるものです。今でも自分の専門分野以外に手を出して恥をかくなどの機会は結構あります。でもそれはそこで恥をかけばいいだけであって(専門じゃないから当然、ぐらいの厚顔さで)いろいろな分野の進んだところに触れるのは、いまだに私の喜びでもあります。
 他の分野の話をするときに、いちいち「基礎からやれ」みたいに言われても何にも面白くありませんし、それは単に参入障壁を作りたいんじゃ…という妙な感じを受けたりします。専門の人は一日の長があるのですから、よほど「思い込み」で頑なな人を除けば、大体優しく見守ってあげればいいのだと思いますし、どうか私にもそういう暖かい視線を注いでおいてください(>いろいろな分野のみなさま)。基礎だなんて言わないで。

ジンタ

 日露戦争後、日本の青年たちの関心は強く宗教というものに向けられていました。その頃の若者は、どの宗教ということはむしろ問わぬような《遠神清浄なる心境に対して限りなき希求の情》*1を覚えたのだと言います。

 そんな季節を背景に大流行した歌がある。『美しき天然』である。

 これは明治三十四(1901)年に世に出た作品で、作詞は武島羽衣、作曲は田中穂積。ワルツの調べに乗せて、このどこの宗派とも問わないような宗教感情への感動を歌ったものでした。一枚の譜面として発売されたものでしたが、瞬く間に当時の女学校の生徒たちの間で評判となり、愛唱されて大流行したのです。

空にさへづる鳥の声 峰より落つる滝の音〉とはじまる一番の歌詞は、〈調べ自在に弾き給ふ 神の御手の尊しや〉で終わる。二番は〈春は桜のあや衣、秋は紅葉の唐錦〉とはじまり、〈手際見事に織りたまふ、神のたくみの尊しや〉と閉じる。三番は〈うす墨ひける四方の山、くれなゐ匂う横かすみ〉とはじまり、〈筆も及ばずかきたまふ、神の力の尊しや〉と讃え、四番は〈朝に起る雲の殿、夕べにかかる虹の橋〉とはじまり、〈かく広大にたてたまふ、神の御業の尊しや〉と結ばれる。音楽、織物、絵画、建築にたとえて「造化の神」の造形力を讃える歌だったのだ。
鈴木貞美『「生命」で読む日本近代 大正生命主義の誕生と展開』NHKブックス[760])

 この歌のワルツのメロディーが、実は第二次世界大戦後にも流れ続けた「ジンタ」なのです。


 ♪ちゃ〜っちゃ ちゃらら ちゃ〜らら〜  ちゃらら ちゃ〜らら〜
  ちゃらら ちゃ〜ちゃ ちゃ〜らら〜 ちゃらら ちゃ〜らら〜〜〜
 (嗚呼、親の因果が子に報い…)


 サーカスや見世物小屋といった暗い暗い雰囲気のところで、やけに耳に残る短調のワルツ。寂しげなクラリネットの音。
 その「ジンタ」のもともとが、実はこの仏教ともキリスト教とも神道とも道教ともわからない「造化の神」を讃える『美しき天然』という流行歌だったのでした。


finalventさんの日記の昨日のコメント欄に「子供の時の鮮烈な記憶、ショウイグンジンとジンタ、60年代のはじめはまだそんな。」と書かれた方がいらっしゃったので…

ネットの実名制

 「インターネット実名制」導入は7月、規制サイトに政府が告知

…政府の情報通信部は、7月27日から施行される「情報通信網利用促進および情報保護などに関する法律」で新たに導入される「制限的本人確認制」に則り、この対象となる企業を調査し、法規制の対象となるWebサイトの運営各社に対して告知した。


制限的本人確認制は、インターネット実名制と呼ばれている。ネット上で他のユーザーを誹謗中傷したり、選挙時に対立候補をおとしめようとするような書き込みに対応するため、本人確認ができた人のみ書き込みを可能とする制度だ。


当初は「表現の自由を侵害する」との反対意見もあったこの制度。しかしインターネット上での誹謗中傷などが頻繁に見られるなど問題が深刻化すると、政府ではこの法律を2007年1月下旬に公布した。


ただし、すぐに全Webサイトを実名制の対象にするのではなく、「1日平均の利用者が30万人以上のポータルサイト、1日平均の利用者数が20万以上のメディアサイト」というように、対象となるWebサイトの制限を設けた。

これらのWebサイトに設けられた掲示板や動画共有サービスを利用するには、韓国国民1人1人に与えられている住民登録番号と名前が一致するなどしてはじめて書き込みやアップロードが許可されることとなる。(後略)
マイコミジャーナル 2007/04/28)

 韓国の話なんですけどね。今夏からこういうネットの制限的実名制が試行されるということで注目しています。もしかしたらそのうちより全面的な実名制へ移行するということもあり得るでしょう。

ただし、従来どおりニックネームやIDを利用した匿名での書き込みは許可される。

 ということですので、案外表面上は従来通りという感じに見えるかもしれません。


 さてこのネットの実名制というものは、日本でもあちこちでたびたび議論になっているものです。私の立場は、匿名の弊害というものを比較考量しても、希望者以外まで実名登録必須というところまで強制するのには賛成できないというあたりでしょうか。現在の発信者特定のトレーサビリティーでこのままいく(様子を見る)という感じでもあります。現在でもそれが全く機能していないことはありません。必要ならばネットカフェや展示PC無断使用には制限を厳しくする、大規模匿名掲示板のトレーサビリティーを今以上に有効化する、ぐらいのことはやらなければならないかもしれませんが。


 ごく初期のインターネット、ほとんどが研究者だけの(に近い)コミュニティーとしてのインターネットから、参入が容易で接続料金もぐっと下がったインターネットになることでネットはおそらく質的に大きく変わりました。良いほうへばかりではありませんが、そこに何のメリットもなかったとするのは誤りでしょう。


 私はこの実名制が「角を矯めて牛を殺す」ことにはならないかと危惧しています。自分が正しいと思ったことなら堂々と実名で発言すれば?という声もありますが、それならば選挙の投票だって実名公開にしてもよいという理屈になりはしないでしょうか。そこには心理的抵抗を減らしたり監視の目に縛られなくて良いという合理的な理由がまだあるはずです。ネットでもこれに近いことが考えられると私は思っています。


 世の中にはたとえば「嫉妬・妬み」などのネガティブな感情が存在しています。この嫉妬というものが過ぎれば、「出る杭は打たれる」というように資質や実力を発揮できない個というものを生み出すことになってしまうでしょう。しかしながらこの感情は、無言のシステムとして世の中の平準化・平等化にも資するところがありまして、まがりなりにも百害あって一利なしとは言えないものなのです。
 結局はそういうメリットとデメリットの比較、リスク評価というものがネットの実名論議では一番の問題になるのでしょうし、その意味で実際にこれが行なわれる韓国の状況は非常に興味深く、しばらく見守りたいと思っています。