ゆりかごに預けた父親

父親の刑事責任問わず・赤ちゃんポスト3歳?男児

熊本市の慈恵病院が設置した「赤ちゃんポスト」(こうのとりのゆりかご)に3歳ぐらいの男児が預けられていた問題で、熊本県警は15日、男児を同病院に連れてきたとみられる父親の刑事責任を問わない方針を固めたもようだ。


 預けられた時の状況などについて調べた結果、保護責任者遺棄罪に当たるような危険な状況ではなかったと判断したとみられる。(中略)


 県警は慈恵病院関係者からの事情聴取で、健康状態に問題がなかったことや、男児を保護するための病院の態勢が機能していたことを確認。今回の父親の行為に事件性はないとみている。〔共同〕 (02:54)
[5月16日/NIKKEI NET]

 捨てられた子は、「親が捨てた」というだけでダメージを受けている(受けることになる)と思います。緊急避難的に「新生児」を引き受けるというのと、言葉も話せる児童を捨てさせるということは質が自ずから異なることです。また、親が本当に追い詰められた状況にあったのかの確認も全くできない匿名性のままに慈恵病院だけが予期せぬ負担に音をあげる事態にでもなったら、それこそ「ゆりかご」本来の役割すら果たせなくなってしまいはしないでしょうか?


(参考:厚生労働省 児童養護施設入所児童等調査結果の概要 (平成15年2月1日現在)
 養護施設に入所した児童の委託期間を見れば、四割以上が4年以上の在所期間となっています。そして12年以上在所する児童も1500名以上(5%)いるのです。匿名で「ゆりかご」に預けられた児童が里親に引き取られる確率は少なくなるのではないかという危惧を私は持っていますし、養護施設で18歳を迎えなければならない子どもが増えるのならば「親に虐待されるよりまし」とかいう安易な発想はどうしても持てません。
 親を「どうしようもない」「更生できない」と見切るのが早すぎではないかと思います。全部社会が受け止めれば無問題とはいかないのではないでしょうか。

 久美さん(仮名)は2歳から18歳までを、50人以上の子どもが生活する「大舎制」の児童養護施設で暮らした。


 なぜ自分は施設に預けられたのか。教えられないまま、物心ついた時には集団生活の一員だった。夜、10人を超える子どもに1人の保育士。隣で寝たくて中学生になっても場所を取り合った。子ども同士の上下関係やいじめがきつくても、逃れる場所がない。「信頼出来る」と思えた職員は、数年でいなくなった。


 一方で、職員には「ここを出たら一人で生きていかなあかん」とよく言われた。社会に出た施設の先輩たちは、人とのコミュニケーションが苦手だったり、仕事を転々としたり。みんなしんどそうだ。


 「必要なのは、自分がたった一人の大切な存在だと感じることだと今は思う。施設では難しい。でも、それを言うほど、自分の育ち、存在を否定することになる葛藤(かっとう)が苦しい」と久美さんは言う。
 (YOMIURI育児ネット記事・家庭失った子に何を…施設、里親の負担重く

 親の説得、再教育についてどこまで考えられているでしょう。そこらへんが聞えてこないまま、虐待親や捨て子親を天災みたいに看做して、子どもの保護が優先とばかり言っていても、制度が充実したものになるまで確実に「今そこで困ってしまう子ども」は増えてしまうと思うのです。

 「どんな状況にも立ち向かってきたが、最近はもう、元気が出ない」と嘆くのは、兵庫県児童養護施設長。


 2000年の児童虐待防止法施行後、入所理由に「虐待」が増えた。中には9割以上が被虐待児、という施設もある。施設の定員充足率は91%。子どもがあふれている。


 被虐待児を受け入れたことで、保護者対応に追われる一方で、心身に深刻な傷を負った子どものケアも担う。児童養護施設の職員配置基準は6歳以上の子ども6人に対し職員1人だ。1日8時間勤務で交代するため、夜間は、1人の職員が約20人を担当することもある。


 状況を改善しようと、子どもの人数や生活単位の小規模化を目指す動きもある。地域小規模児童養護施設の設置、小規模グループケア。施設での家族療法事業、心理療法担当職員や個別対応職員の配置……。国も懸命に対応策を打ち出しているが、施設職員の配置基準は変わらず、社会的養護の構造を変えなければ現状に追いつかない。
(前掲記事より)

 里親にめぐりあえる子は恵まれていると思います。それでもまだそういう子は預けられる子の半数にも満たない現状があるのです。

「ワーキング・プア」

 クローズアップ現代見ました。ちょうど連休明けにデイヴィッド・シプラー『ワーキング・プア アメリカの下層社会』岩波書店、を買って読んでいましたのでタイミングが良かったです。今年になってから考えるようになった「社会改革」と「自己責任」の関わりについて、かなり参考になるものでした。
 クロ現でもシプラー氏は、このアメリカのワーキング・プア問題について単純な問題ではないことを強調されます。製造業の凋落による産業構造の変化(そこにはグローバリゼーションも関係してきます)、住宅費の高騰などなど個人を越えた社会情勢の変化をまず氏は挙げられますが、単純にそこの部分の改革だけで貧困が解消されるともおっしゃってはいません。

 貧困をめぐるアメリカの議論は、個人と社会のいずれがより責任を負うべきかということに焦点が当てられてきたが、私が予想していたとおり、左右の極端なイデオロギー信奉者は、いみじくも本書に困惑している。左翼においては、貧困を助長する家族の機能不全と個人の失敗に関する私の率直さを嫌う一部の人々を怒らせ、右翼においては、社会の諸制度の持つ責任に対する私の「リベラル」な評価を嫌悪する一部の人々を激昂させた。しかし、アメリカの読者の大半は、この袋小路を抜け出し、現実主義的な、イデオロギーにとらわれない議論に向かうことを切望しているように思われる。私は日本においてもまったく同様であろうと信じている。
(前掲書、日本語版への序文より)

 つまり彼が提示している問題は、個人が変われば解決するとか、社会が対応すれば解決するとかいったものではなく、もっと複雑に絡みあったものであるということです。
 もう一つ引用しましょう。

 本書に登場する働く個々人は、孤立無援でも全能でもなく、個人の責任と社会の責任という両極の中間領域のさまざまな地点に位置している。各人の人生は、まずい選択と不幸な運勢の合成物であり、また、選ばれなかった進路と、生まれや環境という偶然によって中断された進路の合成物なのである。ある人の貧困が、その人の無分別な行為―学校の中退、婚外出産、薬物の使用、仕事での慢性的な遅刻―にいくらかでも関係していないような事例を見つけるのは困難である。そしてまた、お粗末な育児、不十分な教育、将来の展望が見えない地域のみすぼらしい住宅、といった親から引き継がれた境遇に多少とも関係していない事情を見つけることも困難である。
(前掲書p.11、強調は引用者)

 簡単に言えば「社会が悪い」とだけ思ったり「本人の責任」とだけ考えたりすることでは問題を的確に捉えることはできず、解決策は見つからないということでしょうね。これには説得力があります。


 ただ一つ、昨日のクロ現で国谷さんが「日本でも同じ」という方向に話をもっていこうとしていたところに、ちょっと詳細に考えていくべき部分もあろうという感想は持ちました。シプラー氏がいう「アメリカンドリーム」の解体的危機なのですが、それは「一生懸命働けば必ず成功する」という神話の崩壊なわけです。これに対して日本で信じられていたものは「一生懸命働けば満足が得られる」というものだったのではないかと、ふと考えたのでした。
 つまり、アメリカンドリームの目標が「成功する>金持ちになる」だったのに対して、日本の労働倫理での目標が「満足する>幸せになる」というところにあって、必ずしも「成功する(金持ちになる)こと」が目指されていたのではないんじゃないかということです。貧乏と貧困は違うと捉えられていた…と言いますか、職人はいい仕事ができれば有名にも金持ちにもならなくても満足する、といったあたりの感覚です。 この一つをとっても、アメリカのワーキング・プアの状況と問題点をそのまま日本に移してくることはできないのではないでしょうか?
 もちろんアメリカの状況は参考になりますし、これは良書であると思いますが、日本の問題はまたそこから自分たちで考えていくべきものではないかというのが、昨日の視聴とこの本を読んだ感想です。