「ワーキング・プア」

 クローズアップ現代見ました。ちょうど連休明けにデイヴィッド・シプラー『ワーキング・プア アメリカの下層社会』岩波書店、を買って読んでいましたのでタイミングが良かったです。今年になってから考えるようになった「社会改革」と「自己責任」の関わりについて、かなり参考になるものでした。
 クロ現でもシプラー氏は、このアメリカのワーキング・プア問題について単純な問題ではないことを強調されます。製造業の凋落による産業構造の変化(そこにはグローバリゼーションも関係してきます)、住宅費の高騰などなど個人を越えた社会情勢の変化をまず氏は挙げられますが、単純にそこの部分の改革だけで貧困が解消されるともおっしゃってはいません。

 貧困をめぐるアメリカの議論は、個人と社会のいずれがより責任を負うべきかということに焦点が当てられてきたが、私が予想していたとおり、左右の極端なイデオロギー信奉者は、いみじくも本書に困惑している。左翼においては、貧困を助長する家族の機能不全と個人の失敗に関する私の率直さを嫌う一部の人々を怒らせ、右翼においては、社会の諸制度の持つ責任に対する私の「リベラル」な評価を嫌悪する一部の人々を激昂させた。しかし、アメリカの読者の大半は、この袋小路を抜け出し、現実主義的な、イデオロギーにとらわれない議論に向かうことを切望しているように思われる。私は日本においてもまったく同様であろうと信じている。
(前掲書、日本語版への序文より)

 つまり彼が提示している問題は、個人が変われば解決するとか、社会が対応すれば解決するとかいったものではなく、もっと複雑に絡みあったものであるということです。
 もう一つ引用しましょう。

 本書に登場する働く個々人は、孤立無援でも全能でもなく、個人の責任と社会の責任という両極の中間領域のさまざまな地点に位置している。各人の人生は、まずい選択と不幸な運勢の合成物であり、また、選ばれなかった進路と、生まれや環境という偶然によって中断された進路の合成物なのである。ある人の貧困が、その人の無分別な行為―学校の中退、婚外出産、薬物の使用、仕事での慢性的な遅刻―にいくらかでも関係していないような事例を見つけるのは困難である。そしてまた、お粗末な育児、不十分な教育、将来の展望が見えない地域のみすぼらしい住宅、といった親から引き継がれた境遇に多少とも関係していない事情を見つけることも困難である。
(前掲書p.11、強調は引用者)

 簡単に言えば「社会が悪い」とだけ思ったり「本人の責任」とだけ考えたりすることでは問題を的確に捉えることはできず、解決策は見つからないということでしょうね。これには説得力があります。


 ただ一つ、昨日のクロ現で国谷さんが「日本でも同じ」という方向に話をもっていこうとしていたところに、ちょっと詳細に考えていくべき部分もあろうという感想は持ちました。シプラー氏がいう「アメリカンドリーム」の解体的危機なのですが、それは「一生懸命働けば必ず成功する」という神話の崩壊なわけです。これに対して日本で信じられていたものは「一生懸命働けば満足が得られる」というものだったのではないかと、ふと考えたのでした。
 つまり、アメリカンドリームの目標が「成功する>金持ちになる」だったのに対して、日本の労働倫理での目標が「満足する>幸せになる」というところにあって、必ずしも「成功する(金持ちになる)こと」が目指されていたのではないんじゃないかということです。貧乏と貧困は違うと捉えられていた…と言いますか、職人はいい仕事ができれば有名にも金持ちにもならなくても満足する、といったあたりの感覚です。 この一つをとっても、アメリカのワーキング・プアの状況と問題点をそのまま日本に移してくることはできないのではないでしょうか?
 もちろんアメリカの状況は参考になりますし、これは良書であると思いますが、日本の問題はまたそこから自分たちで考えていくべきものではないかというのが、昨日の視聴とこの本を読んだ感想です。