災害でも…

 ふと、「丸山眞男」をひっぱたきたいで語られていた「今日と明日で何ひとつ変わらない生活」を打ち崩すカタストロフは、何も戦争状況ばかりではなく「大災害」においても成就するだろうと思いつきました。

 「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる

 というのは水害や土砂崩れ、地震などの災害においても成り立つのだろうと。もちろん災害からの立ち直りは小金を持っている人の方が有利とされるかもしれませんが、被災直後においては金など何の足しにもならないでしょうし、災害が大きければ大きいほど「平等の苦しみ」状況は長く続くでしょう。

 
 「希望は戦争」と「明日大地震が起きて皆死んじゃえばいいのに」という呟きとは同種と見ていいのでしょうか? もしそれが同じようなものなら、多分私には共感できないでしょう。
 違うならばどこが違うのか。全国的な災害でも質的に戦争とは違うといえるのか。
 もう少し考えてみたいなと思っています。

天災―平等(承前)

 何らかのカタストロフが起きて、富める者・恵まれた者とそうでない者の間の格差が一時的にせよ解消するとして(あるいはもっと長期に渡って解消するとしてもよいのですが)、それが望ましい平等公平な状態とはどうにも思えません。
 と言いますか、すでに天災は等しく誰をも襲うことがあるというところで公平なんじゃないかなと思えます。お金があればそこに備えることができる。住居の耐震化も備蓄食料・水も貧しい者より金を持つ者のほうが有利だという考え方もできるでしょう。でもその備えすら無効にするようなカタストロフが来ることだってありますし、富めるもの・恵まれたものはそれだけ失うのを怖れなければならない、それだけ負担が大きいというのも事実でしょう。
 そして、そういう誰かの不幸(あるいはみんなの不幸)によって作られる平等にどれだけの価値があるのかと思うんですね。 そんな誰かの不幸を願うことすら思ってしまうような絶望感、虚無感も人は感じることがあるだろうなと素直に考えていましたが、それは理解するとしても*1共感はやっぱりできません。
 「戦争を待ち望む」というレトリックは、その対象を地震(もしくは天災)に変えるとはっきり否定的に見えてきます。取りあえずそれが互換なものであるのかどうかについては最終的な結論を出せてはいませんが、表現というのは不思議なものだと思えました。

*1:理解が足りないと言われればそれまでですが