在日のお話

http://anond.hatelabo.jp/20071115081835

日本で生まれ、物心ついた時から日本語で話し、
日本食を食べ、キムチが苦手で、
友人も恋人も日本人で、でも祖国がどうって言われてもなあ。
在日の実像とネット上の在日が
乖離しすぎててたまに恐ろしくなるよ。

 ここらへんの感覚は確かに何度か聞いたこともありますし、その時々でそうだろうなと思ったりします。こういう話をしてくれる人は、「日本人は」というように雑に括った話はあまりしないので付き合いやすいということだけは言えます。


 上記増田と同じような意見が知りたいならば、草思社から出ている在日韓国人三世の胸のうち』がおすすめです。(→amazonリンク) 韓国批判、北朝鮮批判をするとしても*1、こういう在日の人もいるということは頭に入れておきたいですね。

 参政権がないことは差別だ、基本的人権を無視している、といって「参政権を与えよ」と運動している在日がいる。ところが、そのまた一方で、在日に日本の参政権を与えることは同化を促すものだ、それを要求している在日は朝鮮民族のプライドやアイデンティティーを否定している、といって「参政権はいらない」と運動している在日もいる。
 同じことでも、差別だと感じるひともいれば、そう感じないひともいる。その背景には生まれ育った環境、地域性や経済力の違い、性別や世代の違いがあると思う。
 参政権がないことや、数年前までの指紋押捺が差別だといわれれば、たしかにそうなのかもしれないのだが、このことに関していえば、わたしはとくに自分がないがしろにされていると思ったことはない。つまり法的なレベルで苦痛を感じたことはなかった。これはわたしの家族、一世の父、二世の母、そして妹も弟も同じように思っていることで、だからいまだに帰化していないのだともいえる。
 わたしは、微妙なのはエチケットの問題ではないかと思っている。

 わたしはある日本人との議論を思い出し、そのときのことを話した。
 話題は戸籍制度だった。相手はこういった。
「日本では、個人ではなく世帯を単位に行政が国民を管理している。戸籍制度にはいくつかの弊害があるから撤廃すべきだと思う。日本以外にこの制度を取っているのは韓国と台湾だけで、これは日本の植民地政策が発端なんだ」
 わたしは戸籍制度をよく知らないので、それに賛成も反対もできないのだが、どういうわけか、そのひとに同意したくなかった。
 今にして思えば、そのときのわたしは、相手のいわんとしていることは「戸籍制度という悪いものが韓国にあるのは、日本の植民地支配のせいだ」と聞こえたのだ。
 韓国と日本のものがまったく同じなのかどうか調べたことはないのだが、戸籍制度の発端はどうであれ、韓国が自分の責任で決めていることなのだから、日本には関係ないことだと思う。
 相手は、自分の主張を強めるために韓国を持ち出してきただけで、そのひと自身も気がつかないうちに韓国を軽視しているように感じられたのだった。
 わたしがいつまでも「日本批判」に同意しないでいると、そのひとは一言いった。


「あなたは同化しているね」


 わたしは気分が悪くなった。
 在日の人間なら、自分と同じ意見だとでも思っていたのだろうか。日本人が、自分の抱いているイメージに合わない外国人(と、そのひとは思っている)に対して、「日本人に同化している」と非難するとは、どういうことであろうか。
 わたしが日本批判に同調しないと、「同化している」とか「(韓国人としての)自己規定ができていない」というひとが、日本人にも在日にも一握りいる。彼らは、すべての在日に被害者の役割を演じることを期待しているのだろうか。
 わたしが在日だというだけで、同意してくれるものと勝手に期待して、それに応えないと、このようにいわれるのだから、ある意味でこれは在日が受ける差別なのだともいえる。一番の問題は、おのれの価値観に執着するあまり、自らの予想に反して違う価値観を持っているひとを見ると、なんとかいい負かして自分の考えている方向へ導こうとする態度である。これはマナーレベルのことである。
(上記書籍 pp.154-156 より抜粋)

*1:それは変に熱くならなくてもちゃんとできるものはできますから

なぜコロのような話題

 時々ネット上で「なぜ人を殺してはいけないの」のような素朴な(もしくは素朴さを装う)質問が話題になることがあります。自分もそれに答えることを試みた経験があるのですが、それ自体を頭の体操的な「遊び」と考えるならともかく、実効的な倫理の手法(そしてその参考に)と考える上では多少の空しさを感じないでもありませんでした。
 こうしたテーマを知性によって語る、そして「道徳が人間のためになる、得になる」という観点で語ることは実はできないことなのだとおっしゃる言に触れました。そしてここに確かに説得力を感じるのです。
 立教大学前田英樹氏の『倫理という力』講談社現代新書1544、からです。

 哲学者流の道徳学説は、社会ですでに行なわれている道徳を、それがなぜ理に適ったことであるかを説明するものだった。この種の説明は、実はよほどの馬鹿でない限り、それ自体としてはうまくいく。社会で行なわれている道徳は、必ず何らかの目的を持ち、拘束力を持ち、準則を持っている。それは、その社会がみずからを維持するために加える基礎的な圧力によっている。道徳学説は、そうした圧力を前提にし、その圧力が成功しているわけを、その社会が受け容れる雰囲気のなかで説明するにすぎない。

 哲学者の道徳学説は、人々を説得したのではない。すでに社会の圧力が従わしめている道徳を、任意の観点から説明した。説明に感心した人々は、すでに道徳に従っていた人である。「人権」を説明していた世紀は、社会の圧力に従ってすでに「人権」を受け容れるブルジョワジーがいた世紀である。そうではない場合があったことを、もちろん私たちは知っている。イエス仏陀孔子聖徳太子などがやったことは、こうした説明ではない。彼らは彼らの時代の血なまぐさい荒野から一人で物を言い、それに応じる人々を生み出した。これは、説得だっただろうか。そう言ってもいい。ただし彼らには説得しようなどというつもりは少しもなかっただろう。


 彼らは、ただ端的にある行動をやってみせた。その行動が点火した倫理の欲求が、彼らの回りにいた少数の人々をまず呑んだ。するとこの人々もまた同じ行動を模倣せずにはいられなくなり、こうして彼らもまた自分の模倣者を拡げたのである。ここには、極めて寡黙な行動の連鎖があったに違いない。

 私たちは、道徳で子供を説得できないことを、何ら恥じるに及ばない。そもそもそうしたことは、人に可能なわざではないのだから。社会の圧力を勝手に高めることもまた私たちにできることではない。では、どうすればいいのか。

 イエス仏陀のようであることは不可能だ。しかし、彼らの行ないと同じ源泉を持つ振る舞いをよく想い、想ったところを行ない、「言うにじん*1なる」*2その行ないを、わずかなりとも語ればいい。欲求は深部から揺り動かされる。子供はその振る舞いを模倣する。人類はそれを模倣するものだから。

 教育やしつけという現場では、今言葉による説得が最も重視され、また同時にそれが最も力を失いかけているように思えてなりません。「感化」や「薫陶」といった教え―まなびの軸について、私たちはもう一度考えてみるべきなのではないでしょうか。

*1:言偏に刃

*2:「これを為すこと難し。これを言うにじんなること無きを得んや」(『論語』顔淵第十二) …言葉と行動は一致すべきものだが、実行は難しい。このことを念頭に置けば、言葉を軽々に発せぬようにせざるをえないではないか