なぜコロのような話題
時々ネット上で「なぜ人を殺してはいけないの」のような素朴な(もしくは素朴さを装う)質問が話題になることがあります。自分もそれに答えることを試みた経験があるのですが、それ自体を頭の体操的な「遊び」と考えるならともかく、実効的な倫理の手法(そしてその参考に)と考える上では多少の空しさを感じないでもありませんでした。
こうしたテーマを知性によって語る、そして「道徳が人間のためになる、得になる」という観点で語ることは実はできないことなのだとおっしゃる言に触れました。そしてここに確かに説得力を感じるのです。
立教大学の前田英樹氏の『倫理という力』講談社現代新書1544、からです。
哲学者流の道徳学説は、社会ですでに行なわれている道徳を、それがなぜ理に適ったことであるかを説明するものだった。この種の説明は、実はよほどの馬鹿でない限り、それ自体としてはうまくいく。社会で行なわれている道徳は、必ず何らかの目的を持ち、拘束力を持ち、準則を持っている。それは、その社会がみずからを維持するために加える基礎的な圧力によっている。道徳学説は、そうした圧力を前提にし、その圧力が成功しているわけを、その社会が受け容れる雰囲気のなかで説明するにすぎない。
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哲学者の道徳学説は、人々を説得したのではない。すでに社会の圧力が従わしめている道徳を、任意の観点から説明した。説明に感心した人々は、すでに道徳に従っていた人である。「人権」を説明していた世紀は、社会の圧力に従ってすでに「人権」を受け容れるブルジョワジーがいた世紀である。そうではない場合があったことを、もちろん私たちは知っている。イエスや仏陀や孔子や聖徳太子などがやったことは、こうした説明ではない。彼らは彼らの時代の血なまぐさい荒野から一人で物を言い、それに応じる人々を生み出した。これは、説得だっただろうか。そう言ってもいい。ただし彼らには説得しようなどというつもりは少しもなかっただろう。
彼らは、ただ端的にある行動をやってみせた。その行動が点火した倫理の欲求が、彼らの回りにいた少数の人々をまず呑んだ。するとこの人々もまた同じ行動を模倣せずにはいられなくなり、こうして彼らもまた自分の模倣者を拡げたのである。ここには、極めて寡黙な行動の連鎖があったに違いない。
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私たちは、道徳で子供を説得できないことを、何ら恥じるに及ばない。そもそもそうしたことは、人に可能なわざではないのだから。社会の圧力を勝手に高めることもまた私たちにできることではない。では、どうすればいいのか。
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イエスや仏陀のようであることは不可能だ。しかし、彼らの行ないと同じ源泉を持つ振る舞いをよく想い、想ったところを行ない、「言うにじん*1なる」*2その行ないを、わずかなりとも語ればいい。欲求は深部から揺り動かされる。子供はその振る舞いを模倣する。人類はそれを模倣するものだから。
教育やしつけという現場では、今言葉による説得が最も重視され、また同時にそれが最も力を失いかけているように思えてなりません。「感化」や「薫陶」といった教え―まなびの軸について、私たちはもう一度考えてみるべきなのではないでしょうか。