アリとキリギリス
kawapon99さんの「働かざる者食うべからず」を読んで、下の記事に私が書いたものと通じるように思いました。
「働かざるもの食うべからず」ってなんか押しつけられているような感じで嫌いだ。働きたくても働けない人もいるし、働いていない人を格下に見るという感覚は好きではない。仕事仕事と倫理のように言う人がいるけれども、なんか違うなあとはいつも感じてきた。
(忘れ去られるべき日々について)
「働かざるもの食うべからず」というアリの倫理を個人の選択として自分で引き受けようとするのは良いのですが、それを他の人に押し付けるのは如何なものか…ということに帰着する話だと思います。
ここでは「働いたから食える(食えている)」という現状認識が、どこかで「働いた(働いている)から食う権利がある」というような、そしてさらに(ひそかに)進んで「働いていない奴には食う権利がない」という具合の倫理に変質してしまっているような気がします。
蟻と蝉
ついでに。イソップ寓話集の「アリとキリギリス」がもともと「蟻と蝉」だった、というのは知られた話かと思います。
…セミは熱帯・亜熱帯に生息し、地中海沿岸を除くヨーロッパではあまりなじみが無い昆虫のため、ギリシアからアルプス以北に伝えられる翻訳過程で改編された。日本に伝わった寓話はアルプス以北からのものであるため、日本では『アリとキリギリス』で広まっている。英語では、The Ant and the Grasshopper、The Grasshopper and the Ant、The Grasshopper and the Antsなどと表記される。(Wikipediaより)
そして、日本語訳されたその結末が
a. 結局蝉に食べ物をわけてあげないもの
b. いやみをいいながらもわけてあげるもの
c. 暖かくわけ与えてあげるもの
などといったパターンに分かれているということも…
ここらへんにつきましてはいろいろ「日本人論」的なものとして語られてしまったりもするのですが、きちんとそこらへんを調べたものとして、花間隆さんのサイト「「イソップ」の世界」(の少なくとも「アリとキリギリス」を巡っての日本人論)は必見ではないかと思います。
この方は戦後(1945年)〜1997年4月までに出版された、イソップ寓話の中から「アリとキリギリス」が収められている本を、107冊程ピックアップして調べられていまして、
戦後(1945年)〜1997年4月に出版されたイソップ寓話 107冊
アリがキリギリスに食べ物を分けてやらない話 (65冊)
食べ物を分けてやる話 (31冊)
食べ物をやったかどうか判らないい話 (11冊)
意外にも、「食べ物を分けてやらない話」が、「食べ物を分けてやる話」の倍以上もあったのです。そしてこれを更に年代を細かく分けてみると次のようになります。
戦後(1945年)〜1979年に出版されたイソップ寓話 69冊
アリがキリギリスに食べ物を分けてやらない話 (37冊)
食べ物を分けてやる話 (27冊)
食べ物をやったかどうか判らない話 ( 5冊)
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1980年〜1997年4月に出版されたイソップ寓話 38冊
アリがキリギリスに食べ物を分けてやらない話 (28冊)
食べ物を分けてやる話 ( 4冊)
食べ物をやったかどうか判らない話 ( 6冊)
この調査結果から分かるとおり、日本の話が、「助けてやる」話ばかりとは言えないのです。いや、1980年以降を見てみると、「食べ物を分けてやる話」は、38冊中4冊しかないのですから、日本の話は、「助けてやらない話」がほとんどである。と、言った方が適切かもしれません。
というように書かれて、いい加減な「日本人論」に疑問を呈するというようなことをされています。これはとても面白いものでした。お勧めのサイトです。
自己責任と「おかげ話」
「おかげ(御蔭)話」というのはよく宗教関係の文脈で出てくる言葉で、「〜となることができたのは信心のおかげだ」とか「〜で病気が治った」とかいう類の御利益(ごりやく)を語る類の話を総称するものです。霊験(れいげん)という語の「験」も「しるし」と訓じ、この御利益を指します。
こうした類の話は言ってみれば「体験記」とか「闘病記」のエッセンスみたいなもので、人によってはわが身を振り返るよすがになったり、自分の生きる指針のヒントになったりと良い影響となる場合もあるのですが、新宗教あたりのセールストークのようなものとして毛嫌いされている向きもあるものです。
この「おかげ話」、基本的な構造としては原因・結果に関して転倒した形を持ちます。「〜になった」「病気が治った」などの結果の側、現在の姿の側から辿る方向で捉えられた一つの原因が、その元(と思われる方向)から一本道でひっくり返して語られる、つまり「過去を振り返って見た因果関係の把握が、過去の側から明らかなものとして語られなおす」という形をとっているのです。これはわざとするというよりは、そう語らざるを得ないものとしてあるという意味で構造的なものだと考えます。
あくまでそこで捉えられた因果は主観的なもの、ところがそれが語られるときには客観性を帯びたものとして表現されるのにはこういう理由があるんですね。
そしてどこそこにお参りしたから受かったとか、なになにを食べたから病気が克服できたとか、それぞれが自分の中で思っている分には自由ですが、これを他の人に信じさせようとするとやっかいなことになってきます。あくまでそれは「自分にはそう思える」という意見の表明にとどめ(もちろん自分の信心は大事にしていただいて結構なのですが)、無理に第三者に押し付けないほうが皆の幸せにつながるような気もします。
日頃のおこないが悪いから
という言葉は今でもたまに耳にします。ギャグっぽくも、半ば真面目にも言われるその言葉ですが、もともとこの「おこない」は古語の「おこなひ」で、古語辞典などで引けばここに「勤行」とか「仏道の修行」とかの意味があることはわりに知られていることだと思います。つまり「日頃のおこないが悪い」というのは普段きちんと仏道など宗教的行為にに勤しんでいないということで、まあ「おかげ話」(の逆?)に類するものであろうということは容易に推測されることでしょう。*1
もちろん今はこの語の宗教性などは意識されずに使われています。多分にそこには一般道徳的含意が含まれている気配はしますが(つまり「悪いことをすれば相応の報いが…」という感じで)。そして、これを他の人に向けるということが実は他の人に「おかげ話」を押し付けているのにも似た行為になっているんじゃないかと思うのです。
「自己責任論」が「日頃のおこないが悪いから(そうなんだ)」というように誰か他の人に対して使われる場合、そこで出現している因果関係の把握は十分考慮されているのでしょうか。客観性はきちんと認められるのでしょうか。私にはかなり不十分なものが多いように見えることがしばしばです。
ここにもまた知らず知らずの転倒、捉えなおされ語られなおされる因果関係が実はあるんじゃないかと…
自己責任というのはあくまで「自分(たち)」に向けて「自分(たち)」で使うべき言葉じゃないかと思うのです。本当の因果、責任の所在云々はともかく、自分で自分に責任を引き受けようとする(つまり誰かに責任転嫁しない。○○の所為だ、とはしない)姿勢は潔く時に偉いものだと感じます。これを否定はしません。
ですが、誰かに対して「自己責任だろ」なんていう言葉を投げかけるのは、言ってみれば「自業自得」という言葉を安易に使っているのと同じだと感じるのです。
「おかげ話」が時に有効なように、誰かに自己責任だと迫るのも有効・有益なこともあるでしょう。でもやっぱりそれはもともと限界を持ったもの、主観的なものだということを意識した方がいいはずです。これもまた「無理に第三者に押し付けないほうが皆の幸せにつながる」ものだと思うんですね…
追記
PSJ渋谷研究所Xで「3た」論法という記事を読みました。その(雨乞い)「3た」論法とは
「祈った→降った→効いた」という勘違い論法のこと
だそうです。
ここで書いた「おかげ話」と関係がありそうだと思いましたのでトラックバックさせていただきます。
*1:岩波の古語辞典は特にこの語幹の「おこ」に儀式・勤行等の同じ形式や調子の行事という意味を読み取り、単に行為を意味する「行なひ」からの派生ではないと解釈しますが、これは勇み足気味ではないかと個人的には思っています