速水健郎『自分探しが止まらない』を読んで
『自分探しが止まらない』ソフトバンク新書064、を夕べ一気に読んでしまいました。とても面白い本でした。本の主題と自分の興味関心が重なる部分が多かっただけに、折に触れて自分で書きとめていたもの書こうと思っていたものなどと比べて、よく調べてあるなあと非常に悔しい思いも(賛辞)。
団塊の世代が若かった頃から現在に至る世相を読み解く上でも、この「自分探し」というものに着目するというのは秀逸な着眼点だと思います。社会の風潮の一つの側面が連続したものとして読み解かれ、ただ単に「自分探し(笑)」と揶揄するものでは全くない深さを捉えていると感じました。
本書は「自分探し」は基底的に「現実逃避」ではないかという視点を確かに持ちますが、それがすべて個々の甘えに還元されるものではなく、そこに構造的なもの(教育・経済・宗教…などなどの影響)もあるという分析がなされてもいます。またなるべく決め付けを避け、できるだけ「両論併記」的な書き方をしようとしているなという印象があります。公平を心がけている姿勢も好感がもてるところ。
とりわけ印象に残ったフレーズをいくつか挙げますと
…自分を変えるために何か具体的な努力をしようとは考えずに、環境を変えることで自分を変えようという彼らの心性こそが本書のテーマである「自分探しの旅」だ。(p.62)
「やりたいこと」を推奨し、「夢を追うこと」をよかれとする社会に格差が生じ、貧困が生まれるのは当然の帰結なのだ。(p.134)
若者の自分探しは…現代の日本社会が構造的に生み出し続けているものではあるが、これらに迷い出た若者をすくい上げるのは、彼らを社会へ導こうとする救いの手ではなく、多くの場合は彼らから金を巻き上げようとするビジネスなのだ。(p.140)
自己啓発は一種のドラッグだ。高揚が切れると、さらなる自己啓発の材料を必要とする。(p.154)
などといったところでしょうか。採り上げられている題材も、ネット上で噂になったものをはじめ多岐にわたり、イラク人質事件、ホワイトバンド、『絶対内定』、「教育改革に関する第一次答申」、ネオリベ、キヨスク、梅田望夫等々、主題を追いながらそれぞれの背景にうっすら連関が見えてくるあたりは実に興味深い問題提起です。一番新しい話題で今年の一月のものが出てきたときには、活きのいい情報を心がけることにブロガーとしての筆者の気持ちが見て取れたような気もしました。
さてこのように大変面白い本書だったのですが、やはり新書としての制限と言いますか、紙幅の限定、そこで一応の結論を出さねばならぬこと…などで若干損をしているかなと思わないでもありません。特に、現在の「自分探し」がどういう形で何故あるのか、それに答えをださなければならないという縛りで、宗教社会・会社社会等々と色づけられた過去の社会との違いを述べている件は少々急ぎすぎな感じがします。
「自分の内面に向かってそこに何かを見つけよう」とするような流行は、実は明治から大正にかけての日本社会でもあったと私には思えておりますし、たとえ自分探しという言葉がなかったにせよ、こういった社会的風潮は繰り返されていると、そして現在のその姿でさえ繰り返しの一つなのではないかと密かに思っているからです。
そして現在が過去と一番異なっているのは、特別な「自分探し」の人が増えたというよりも、その「自分探し」から一歩なり二歩なり身を引いて、そこにビジネスを見るとか宗教性を見るとか、そういう感じで批評することができる人が増えたということではないかと…*1
まあそれが正しいかどうかはまだ自分でもわかりませんが、著者がこれからもこの主題を折に触れて探っていっていただきたいなあとは強く思いました。興味関心が引っかかる方にはぜひお勧めしたい本です。
*1:少なくともこういう本がちゃんと売れる程度には
なぜ自分を探そうと思うのか
それは「今の自分」がわからないか、あるいはそれに満足できないからでしょう。本気で悩んで考えていればしばらくするとお腹が空いてくるはず。その空腹も「今の自分」だということにさえ気付かないのはおよそ馬鹿げているような気もしますが、それに満足できず気付きたくないという話であるならば何とか理解もできようというもの。
「今の自分」は諸条件に制限されて、制限されているということによって存在し、またそこで「できること」によって形作られていますが、それが「自分」のすべてでもありません。「自分」は今あるものとこれからなろうとするもの、そして周囲の条件に左右されながらも自ら作り出していくものでもあります。
昨日見た知的障碍を抱える彼らは、まず自分を探すなんていうところから始めませんでした。でも結局自分にたどり着いていたように見えます。もちろんたどり着いてそこで終わり、ではなく、そこからさらに死ぬまで変わり続けるものであると思いますが。
自分は自分で作るというイメージでわかり易いのにはたとえば職業アイデンティティーなんていうものもありますね。これは昨日の彼らをも充実させてくれているものでした。
「自分探し」の流れのどこかで、職業アイデンティティーの軽視ということが起きていたのかもしれません。いわく「サラリーマンなんて退屈だ」「会社と家の往復だけなんて夢がない」「会社人間にはなりたくない」…。でも考えてみれば「サラリーマン」という職業はないわけです。それぞれが顔を持ち、内容を持った仕事があり、何もラーメン屋やボクサーだけが職業アイデンティティーをもたらしてくれるものではありません。
そして会社人間と呼ばれたような人は、それぞれの職業アイデンティティーを十分すぎるほど確立して社会につながり、自分への誇りや自信を持っていたはずです。退職後の彼らに問題だったものは、職業アイデンティティーを喪失した後のアイデンティティーをどうするかということであって、それが無くなった後の自分がみつからなかったからといって職業アイデンティティー自体が嘘っぱちだったということではないのです。
本当の自分をどこかに探すより、職業アイデンティティーをつけるよう苦労してみるとか、結局はそちらの方に多くの人が流れてゆければそれでも問題は小さかったのでしょう。でもおそらく90年代からの不況が、それを許さない状況をかなり作っていたのだと思います。「恒産なくして恒心無し」は職業アイデンティティーのことを言っているとも解釈できるかも(牽強付会ですけど)。
大体20歳前後の若者にアイデンティティーがどうこう見つけさせること自体に無理があったと思うんです。一部のスポーツ選手やら技能の持ち主以外は、結局そこにほとんど何もないということに気付かされるだけで、それはダメージ大きいですよ。そのぐらいではめぼしいものがなくて当たり前。これから生涯かけて何か作っていけばいいというそれだけ示してあげれば良かったんじゃないですか?