なぜ自分を探そうと思うのか

 それは「今の自分」がわからないか、あるいはそれに満足できないからでしょう。本気で悩んで考えていればしばらくするとお腹が空いてくるはず。その空腹も「今の自分」だということにさえ気付かないのはおよそ馬鹿げているような気もしますが、それに満足できず気付きたくないという話であるならば何とか理解もできようというもの。
 「今の自分」は諸条件に制限されて、制限されているということによって存在し、またそこで「できること」によって形作られていますが、それが「自分」のすべてでもありません。「自分」は今あるものとこれからなろうとするもの、そして周囲の条件に左右されながらも自ら作り出していくものでもあります。


 昨日見た知的障碍を抱える彼らは、まず自分を探すなんていうところから始めませんでした。でも結局自分にたどり着いていたように見えます。もちろんたどり着いてそこで終わり、ではなく、そこからさらに死ぬまで変わり続けるものであると思いますが。


 自分は自分で作るというイメージでわかり易いのにはたとえば職業アイデンティティーなんていうものもありますね。これは昨日の彼らをも充実させてくれているものでした。
 「自分探し」の流れのどこかで、職業アイデンティティーの軽視ということが起きていたのかもしれません。いわく「サラリーマンなんて退屈だ」「会社と家の往復だけなんて夢がない」「会社人間にはなりたくない」…。でも考えてみれば「サラリーマン」という職業はないわけです。それぞれが顔を持ち、内容を持った仕事があり、何もラーメン屋やボクサーだけが職業アイデンティティーをもたらしてくれるものではありません。
 そして会社人間と呼ばれたような人は、それぞれの職業アイデンティティーを十分すぎるほど確立して社会につながり、自分への誇りや自信を持っていたはずです。退職後の彼らに問題だったものは、職業アイデンティティーを喪失した後のアイデンティティーをどうするかということであって、それが無くなった後の自分がみつからなかったからといって職業アイデンティティー自体が嘘っぱちだったということではないのです。


 本当の自分をどこかに探すより、職業アイデンティティーをつけるよう苦労してみるとか、結局はそちらの方に多くの人が流れてゆければそれでも問題は小さかったのでしょう。でもおそらく90年代からの不況が、それを許さない状況をかなり作っていたのだと思います。「恒産なくして恒心無し」は職業アイデンティティーのことを言っているとも解釈できるかも(牽強付会ですけど)。


 大体20歳前後の若者にアイデンティティーがどうこう見つけさせること自体に無理があったと思うんです。一部のスポーツ選手やら技能の持ち主以外は、結局そこにほとんど何もないということに気付かされるだけで、それはダメージ大きいですよ。そのぐらいではめぼしいものがなくて当たり前。これから生涯かけて何か作っていけばいいというそれだけ示してあげれば良かったんじゃないですか?