「理解」という言葉

 あなたは私を理解していない…
 お前は俺のことをわかっちゃいない…
 誰にも自分らの気持ちなんかわかるもんか…


 これらは「相手が理解していない(できない)」という言葉で表出された(自らの側からの)拒絶の言葉です。
 ここで求められている「理解」は共感・同情・許容…といったものであると思います。理屈でその状況がわかっている(と思われる)相手にでもこれらの言葉は発せられるのですから。
 ちょうどある作品に触れたときに、内容を理解したとしても(understandingがあっても)鑑賞できていない(appreciationがない)と言われるのに似た状況がそこにあるのではないかともちょっと感じます。


 ただしこれはもともと無理なところがある要求で、相手の自発的な共感を誰かが強いることなどもとよりできないことでしょうし、またその「理解」がなされたかどうかの判断が一方的にそれを求める側に属するといったとても不公平な要求でもあります。


 ですから「じゃあ知らないよ」と突き放すようなこともしばしば起きてそれは不思議でもないのですが、にも拘わらずこれに応える時があるというのはどういうことでしょうか。
 一番わかりやすそうなのが、その相手を理解してあげたい(共感してあげたい)という気持ちが生じるから…というあたりです。これは必ずしも愛情・愛着までいっていなくても、興味関心があるというぐらいでもあり得る話で、そのモチベーションがあるから拒絶を乗り越えようとする行為が生まれるんですね。
 また相手が見知らぬ者であった場合、そこには「弱者に対する負い目」のようなものが発生しているのかもしれないと昔考えたことがありました。
 松田修氏の書かれた以下の文章はちょっと手がかりになるかもと考えています。

 それにしても、己の虚構化は、攻撃よりも多く、防衛において見られるような気がする。つまり、虚構化とは、本質的には、弱者の側に属する能力といってよいのではあるまいか。


 強者に虚構化、非日常化がないとはいわぬ、威嚇、脅迫等における有効性は、弱者と同レベルまで、強者のものでもある。にもかかわらず、私はなおさら虚構化・非日常化を、本質的には、という前提条件の上で、弱者の側に属するものとみたい。
 (「芸能と差別」)

被(災)害者の言い分

被災者が支援物資奪い合い、運搬中の車に殺到…四川大地震

【綿竹(中国四川省)=牧野田亨、都江堰(同)=竹内誠一郎】中国の四川大地震から3日目となる14日午後、多数の死傷者が出た四川省綿竹市の農村地区で住民たちが支援物資を積んだトラックを止め、荷台の物資を奪い合う事態が発生した。


 地震後、停電と断水が続き、食料が不足するなか、政府の支援が遅れていることに被災者の不満が高まっている。


 14日午後3時ごろ、この地区の幹線道路沿いに住民約100人が集まり、「災害支援」と書かれた横断幕をつけたトラックを無理やり停車させ、荷台に積んであった飲料水を箱ごと奪った。


 住民たちは、その後も車を止めては物資を奪おうとした。一部は支援のトラックが停車したすきに荷台に入り、支援関係者から引きずり下ろされた。制止に入った公安車両の窓ガラスを飲料水の容器でたたく住民もいた。住民の一人は「被災者なのに誰も助けてくれない。(奪って)何が悪い」と怒りをあらわにした。


 当局は、道路沿いに武装警官約30人を配置し警戒を始めた。


 数キロ離れた別の地区では、この日初めて到着した支援物資に住民たちが殺到。支援者の制止を振り切り、ゆで卵や飲料水などを奪った。(後略)


 (2008年5月15日 読売新聞) ※強調は引用者

 

「被災者なのに誰も助けてくれない。(奪って)何が悪い」
 こういう言い方に対してものを言うのが実に難しい時があります。それは、同情し(一部でも)共感してしまう気持ちの問題であって、おそらく理屈ではないでしょう。