「理解」という言葉

 あなたは私を理解していない…
 お前は俺のことをわかっちゃいない…
 誰にも自分らの気持ちなんかわかるもんか…


 これらは「相手が理解していない(できない)」という言葉で表出された(自らの側からの)拒絶の言葉です。
 ここで求められている「理解」は共感・同情・許容…といったものであると思います。理屈でその状況がわかっている(と思われる)相手にでもこれらの言葉は発せられるのですから。
 ちょうどある作品に触れたときに、内容を理解したとしても(understandingがあっても)鑑賞できていない(appreciationがない)と言われるのに似た状況がそこにあるのではないかともちょっと感じます。


 ただしこれはもともと無理なところがある要求で、相手の自発的な共感を誰かが強いることなどもとよりできないことでしょうし、またその「理解」がなされたかどうかの判断が一方的にそれを求める側に属するといったとても不公平な要求でもあります。


 ですから「じゃあ知らないよ」と突き放すようなこともしばしば起きてそれは不思議でもないのですが、にも拘わらずこれに応える時があるというのはどういうことでしょうか。
 一番わかりやすそうなのが、その相手を理解してあげたい(共感してあげたい)という気持ちが生じるから…というあたりです。これは必ずしも愛情・愛着までいっていなくても、興味関心があるというぐらいでもあり得る話で、そのモチベーションがあるから拒絶を乗り越えようとする行為が生まれるんですね。
 また相手が見知らぬ者であった場合、そこには「弱者に対する負い目」のようなものが発生しているのかもしれないと昔考えたことがありました。
 松田修氏の書かれた以下の文章はちょっと手がかりになるかもと考えています。

 それにしても、己の虚構化は、攻撃よりも多く、防衛において見られるような気がする。つまり、虚構化とは、本質的には、弱者の側に属する能力といってよいのではあるまいか。


 強者に虚構化、非日常化がないとはいわぬ、威嚇、脅迫等における有効性は、弱者と同レベルまで、強者のものでもある。にもかかわらず、私はなおさら虚構化・非日常化を、本質的には、という前提条件の上で、弱者の側に属するものとみたい。
 (「芸能と差別」)