トリアージ論争の理解
医療的な意味での「トリアージ」を超えて、トリアージを問題視したりホロコーストの話題が出てきたり、さまざまに議論が為されているのですが、何が問題になっているかについて私見を少々。
ごく大ざっぱに私が捉えた争点は、「人間を選別することの是非」という一点だと思います。
これに否定的な方々は、人間を選別することの極北にホロコーストを見て、それゆえ人間を選別することなど許されないということを主張されていると考えます。
これに対して、人間を選別することは功利的にも現実的にもあることではないかとおっしゃる方々がいます。その有効性(例えば医療トリアージ)や現実、社会の様々な側面で実際に人間が選別(分類)されることはあるのに、それを全部否定するなんて…というところにまとめられるように思います。
前者にとっては、無反省に人間を選別することがホロコースト的なものにつながるのは自明となっていますし、後者にとっては、人間の選別がみなホロコーストにつながるなんて極論、論理の飛躍だという話でしょう。
私見ですが、これはこういう単純なところでのやり取りに表現の不適切さや感情のもつれが絡んでおおごとになっているように見えるだけなのではないかと感じます。
単純化し過ぎでしょうか?
私の立場は、人間を選別することがホロコーストの危機につながるものだということ自体は(自明とは言えないまでも)理路としてはあると思えます。ただ同時に、それは一つの警鐘/極論としてはあっても、人間の選別をすべてやめるべきだという理想論には与できない、といったあたりですね。
なぜそこまでして空気を読もうとするのか
■正直どう動いていいやら…(増田)
つまり、場が仲良しサークルと化している中で、ひとり彼女に下心を持って告白せんとする俺は
まさにコミュニティを崩壊させかないKYな存在なのだ。2人の男は言うに及ばず、恐らく、彼女にとっても。
そこまでして空気を読む必要なんて何もないはずです。
「要は勇気がないんでしょ」なんて煽り方はしませんが、その"コミュニティ"を大事に思う(快い関係を続けたいと思う気持ちが強い)ということが、彼女にアプローチしない言い訳にはなっていないように傍からは見えます。
一度自分の読み(彼女がどう動くかとか状況はどうなるとか)を棚上げして、自分が本当に願うところを考えてみることが必要だと思います。彼女に対しての気持ちがそれほどでもないと思えたら、ぬるく快い状況に流されるのも選択の一つ。誰にもその選択を責める権利はありません。
ただ、あえてものわかりがいいふりをかなぐり捨てて、空気が読めない、「わかった」と言わないへそ曲がりになるのも選択の一つです。
参考までに言いますと、わりに実生活で後者の選択が多かった私は、結局今一人ぼっちです(笑)。ただしほとんど悔いは残っていませんけど。