トリアージ論争の理解

 医療的な意味での「トリアージ」を超えて、トリアージを問題視したりホロコーストの話題が出てきたり、さまざまに議論が為されているのですが、何が問題になっているかについて私見を少々。


 ごく大ざっぱに私が捉えた争点は、「人間を選別することの是非」という一点だと思います。
 これに否定的な方々は、人間を選別することの極北にホロコーストを見て、それゆえ人間を選別することなど許されないということを主張されていると考えます。
 これに対して、人間を選別することは功利的にも現実的にもあることではないかとおっしゃる方々がいます。その有効性(例えば医療トリアージ)や現実、社会の様々な側面で実際に人間が選別(分類)されることはあるのに、それを全部否定するなんて…というところにまとめられるように思います。


 前者にとっては、無反省に人間を選別することがホロコースト的なものにつながるのは自明となっていますし、後者にとっては、人間の選別がみなホロコーストにつながるなんて極論、論理の飛躍だという話でしょう。


 私見ですが、これはこういう単純なところでのやり取りに表現の不適切さや感情のもつれが絡んでおおごとになっているように見えるだけなのではないかと感じます。
 単純化し過ぎでしょうか?


 私の立場は、人間を選別することがホロコーストの危機につながるものだということ自体は(自明とは言えないまでも)理路としてはあると思えます。ただ同時に、それは一つの警鐘/極論としてはあっても、人間の選別をすべてやめるべきだという理想論には与できない、といったあたりですね。