宗教と科学(手掛り)

 少しホワイトヘッドの言からピックアップしてみたのですがなかなかまとめられず。
 まあ日記でちょこちょこ扱うような内容でもないかと、とりあえず材料としてだけ書き留めておきます…

 For example, it is fashionable to state that religion and science can never clash because they deal with different topics. I believe that this solution is entirely mistaken. In this world at least, you cannot tear apart minds and bodies.


 たとえば、宗教と科学が衝突することは決してあり得ない、なぜなら違った論題を扱っているから、と申し述べるのが流行っている。私はこの解決は全くの間違いだと思う。少なくともこの世界の中で、心と身体を引き離すことはできないのだ。
(Alfred North Whitehead, Adventures of Ideas, The Free Press, 1967, p.40)

 ある意味において科学と宗教との対立はもともと些少なことがらであるのに、不当にも大げさに言われてきた。

 われわれは出来事の非常に異なった側面がそれぞれ科学および宗教で扱われることを忘れてはならない。科学は自然現象を規制すると思われる一般的諸条件に関わりを持ち、これに対し宗教は道徳的・美的価値の観想に没頭する。

 それぞれ互いに、一方の見るものを他方が見落としている。
(Whitehead, Science and the Modern World, Cambridge, 1929, p.229)

 それ(哲学)はこの二つのもの、すなわち宗教と科学を、一つの合理的な思想のスキームに融合させるところにその主要な重要性を持つ。

 宗教は、もともとは概念的思考にのみ属しているあの非時間的一般性を情緒につきものの特殊性のうちに注入しようとする根本的渇仰である。

 生の経験を知的に正当化しようとするこうした要求が、ヨーロッパの科学の前進における原動力だった。この意味で科学的関心は宗教的関心の異文(variant)にすぎない。

 しかし科学と宗教とは、それらが関わっている個人的経験の諸相において非常に相違している。宗教の核心は、経験がそこから生起する知覚対象への感性的反応を合理的思考と調和させることにある。科学が関わっているのは、知覚対象それ自身と合理的思考とを調和させることである。科学が情緒を問題にするとき、当の情緒は知覚対象であって、直接的な情念ではない。

 宗教が取り扱うのは経験主体の形成であり、他方、科学が取り扱うのはこの経験において最初の相を形成する与件であるところの客体である。

 科学はその知覚対象のうちに宗教体験を見出す。そして宗教は、特殊な感性的反応と接合される概念的経験のうちに科学的概念を見出す。
(Whitehead, Process and Reality  corrected edition, The Free Press, 1978, pp.15-16)

 科学は、その形而上学を内包したまま放置し、科学の一般的記述の実用的価値へのわれわれの信仰の背後に身を隠すことを許される。もし宗教がそのようなことをすれば、それは…単なる心地よい諸観念であるにすぎなくなってしまう。科学は(少なくとも一時的な方法論的対策としては)素朴な信仰に安住できる。しかし宗教は正当化への渇望である*1。宗教が透徹さ、明晰さを探求することをやめる場合、それはいっそう低い形態へと転落していく。信仰の時代は合理主義の時代である。
(Whitehead, "Religion in the Making", in Alfred North Whitehead: An Anthology, F.S.C.Northrop & Mason, 1953, p.498)

*1:「(宗教は)実在の諸事実の正当化を存在の本性の中に見出したいという精神の渇望」