サッカー日本代表の勝利を喜ぶということ
ワールドカップへ向けた、アウェイでの重要な一戦に勝ちました。日本代表おめでとうざいます。代表チームに一人の直接の知り合いもいない私としては、この嬉しさがナショナリズムの一つの形であることを認めなければいけないかと思います。
以前にナショナリズムについて書いていましたが、よい機会なので少々続けたいと思います。
面識もない方々の応援ができ、さらに勝利に共感できるというのは離れてみれば不思議なことかもしれません。しかしそれが国レベルでなくとも、たとえば出身県レベル、出身校レベル、企業グループレベルなどなどで私たちはごく普通に行っていることだと思います。もちろん個人差はありますし、ケースによってそれをいやな雰囲気と思うことすらあるでしょう。ですが「想像もできない」と考えることではありません。
「自国嫌悪」を考えた時に、自分の自我の一部がたとえば国に、たとえば郷土に、そうした自分を含む集団に仮託されてもいるという話をいたしましたが、おそらくこういう働きで「自分の延長」として集団の勝利をわがことのように喜べているのは一面の真実であろうと思います。日本代表の勝利は私の勝利でもあったのです。
「自立自存する個人」という方向からこの問題を考えるとき、私はそれがむしろ「思考実験」のようなものでしかないと思います。生まれた瞬間から独立した自我を持つ人はいません。それを忘れて、なぜ自分の自我を国家と重ねて見るのかと問うのは逆立ちの議論でしょう。自我は揺籃期において人との関係から生み出されるものです。最初から他者が自分と隔絶したものなら、「他我」を認めることなどはおよそ不可能なことではないでしょうか。「自分」というものが人と人との関係から削りだされたものであるからこそ、まがりなりにも相互理解というものへ信がおけているのです。国との関係が自我を形成してきた中にある人は、当然のように国にその自我の一部を残すのです。
ただしそういう意味でも「国」が自我の一部であるというのは絶対的なものではありません。成長過程で「国」がしっかりした位置づけを取らない場合(それは近代国家以前の多くの社会で見られることですが)、国家に自我の部分を置くということは難しいでしょう。たとえば平安時代の地方官の娘にそういう意識を求めることは不可能です。
だからある意味ナショナリズムはフィクションとも言えます。また実際それでもそのフィクションを離れることが難しい(できない)のも私たちのあり方だと思います。こうして考えることによって幾分相対化はできるでしょうが、それがすでに自分の心に棲んでいる以上、それをただ切ってしまうのは自分の心を傷つけるだけなのです(場合によっては自分を殺すことにも…)。
ナショナリズム(国家主義・国民主義)が暴走した時の危険性は私も認識しています。それが「統合」と同時に「排除」の論理も抱えているからです。ですからナショナリズムを(ある程度)相対化し、それ以上に魅力的な「統合」の理念が現れてくれることも望んでいます*1。
まさに私自身がその中にいるだけにナショナリズムを語る(外から見る)のは難しいのですが、ナショナリズムを単純に悪と決め付けたり、皮相な受け取り方でそれを見るのはおそらく間違いだろうと思います。ラベリングした思考放棄になってしまうだけでしょう。
ナショナリズムは実は民族主義でも人種主義でもありません。それと重なる場合があるにせよ、もっと広い概念です。たとえばユーゴスラヴィアはチトー氏のもとユーゴとしてのナショナリズムの形成に努めました。ですがその試みは潰え、民族によるナショナリズムが悲劇を生みました。失敗したのも一つのナショナリズム、それをつぶしたのもナショナリズム。そういうことだと思います。
他多民族を抱えた国家のナショナリズムは、アメリカ合衆国などもそうですが、ある意味理念的な軸が相当に問題になります。過去における(フィクショナルな)軸として「民族」や「人種」などというものの強度が非常に高く、それを越える(フィクショナルな)軸を見出し維持するのがとても難しいということです。おそらくアメリカが掲げ、時に他国への押し付けとも見える「自由と民主主義」は、そうした軸の一つとして機能しているのではないでしょうか。
一つだけ付け加えるとすれば、私は「敵」を常に必要とするナショナリズムは脆弱なナショナリズムだと思います。他のナショナルを貶めなければ自分のナショナリズムが維持できないのなら、それは憎悪に直結した、悲劇を生み出すだけの負の感情にすぐに陥ってしまうでしょう。
同じフィクションとしてそれがあるとしたら、そしてそれと共に生きていかなければならないとしたら、私は私のナショナリズムを悪夢にはしたくありません。バーレーンと日本の代表がサッカーで戦うということは、私の中でバーレーンに憎しみを持つということではありませんでした。さらにニュースで聞こえてきた試合後のバーレーンの人々の「日本よくやった」という声は、ナショナリズムの共存への希望だもとだとも感じています。
そういう意味で何の後ろめたさもなく
日本代表おめでとう。勝ってほんとうに嬉しい!