昨日の日記の補遺
まだ眠いうちに一気に書いた所為で構成もいい加減、最後のあたりは段落のつながりがうまくない、記述もぼろぼろで間違い二箇所発見(直しました ^_^;) ああ、と一頻り嘆息です。
で、ちょっと補遺です。単純な筋としては
- 人は生まれてくるときに「明確な(個別の)自我」を持っているわけではない
- 個としての自我は周囲の人と人の関係の中から彫琢されてくるもの
- それは成長過程において様々な集団(小は家族、大は国家)の影響を受け、育まれてくる
- 自立する「自我」は成長して後成り立っているもの
この前提で、だからと続きます
- 自我の一部を「集団」に残して(託して)いる場合(ナチュラルに国を想うような場合)、それは自我形成の中で必要としたものが残っているとみることができる
- そういう時はもともと「なぜ国を想うのか」という問い自体が無意味
- 近代国民国家以降はこういうナチュラルな愛国心がincludeされているケースが多いのではないか
- 逆に言えばそれ以前の世界では、むしろ愛国心はそれほど考えられない。愛郷心などは別
もちろん自我がある程度固まってから選択するナショナリズムもあるわけですが、国民国家が一種当たり前の前提となっているこの時代において、むしろそうした選択をしなければならない状況というのには何がしかの不幸・悲劇が想定されるのではないかと…。
わかりにくい言い方かもしれませんが「思考実験」と昨日言っていたのは、最初から「自我」を前提としている思弁のシミュレーションに対してのもので、それは「どうしてあなたは愛国心などと言うの?」という問いに対しての私の一つの答えでもあります。大体考えの筋をお話すれば、ある程度わかっていただけると思うのですが。
「他我」のことなどについては、いずれ書くつもりでいます。
補遺を書いてみて、自分の筆力の足りなさに「失意体前屈」状態でもあります…。また草取りしましょう。