「差別はだめ」という言葉について

 差別(discrimination)はいかなる場合でも絶対にいけないものだ、という前提は正しいでしょうか?また、これを今の日本社会は「建前」として共有しているでしょうか?このことを考えるとき、私が思い出すのは2000年前後のオウム信者に対する地方公共団体の対応です。

一つの事例

 当時の状況はたとえば(2000年9月)

江川紹子:…今あちこちで住民票の拒否、転入届を受理しないという問題が起きたり、子供の就学拒否が起きています。

 と語られるように、明らかに彼らを信教において区別しその人権を無視するといった体の状況でした。心の問題ではありません。公的機関によるあからさまな差別措置です。
 それはたとえばこちらで「オウム真理教(現アレフ)に対する世田谷区の対応」などとしてまとめられていますが、基本的に住民・市民の声を慮って(という意味では民主的に)差別が行われていたことは誰も否めないでしょう。


 私は今それを糾弾しようと思っているわけではありません。私だって声を挙げたわけではなかったですし。
 ただ、これだけあからさまな「差別」に対して、マスメディアがキャンペーンを張ることもなく、市民運動が目立つ動きをすることもなく、輿論地方公共団体を責めることもなく、若干の後ろめたさを感じつつも「仕方ないこと」としてほとんどすべての人々が差別反対の声を挙げることがなかったという事実を考えたいと思うだけです。


 この年の11月には、世田谷区を抱える東京都が人権問題に関してはっきり取り組む姿勢を明らかにしていたのにもかかわらず(参考:東京都人権施策推進指針について)、都が区に対して何らかの指導を行ったという形跡もありません。
 また当然ながら、これは裁判に訴えられ区側が敗訴となっています(世田谷区(住民票削除処分)執行停止申立事件)。

「周辺住民がアレフの構成員と交流を図りながら、共存を目指すための活動をしている自治体も認められ、本件各処分(転入届不受理処分)のような違法な手段が教団への唯一の対処方法であるとは、到底採用し得ない見解である」
(世田谷・住民票消除処分取消訴訟判決 2001/12/17)


「被告区(世田谷区)としては、原告らの居住を前提として、その事実を公証することによって、その居住関係を把握するとともに、周辺住民の恐怖や不安を解消させるため、関係諸機関と協力して公共の安全を確保しつつ、教団と周辺住民との対話等による相互理解の促進をこそ図るべきであり、いたずらに教団を敵視し続けることは、相互理解の機会を奪うばかりか、教団の実態を把握することすら困難になる等問題の解決をさらに困難にするものというべきである」
(世田谷・転入届不受理処分取消等請求訴訟判決 2002/4/23)


 このオウム信者に対する差別に関して、メディアも、市民団体も、一般の人々もほとんど何もしなかったということから、私は差別(discrimination)はいかなる場合でも絶対にいけないものだ、という前提を今の日本社会は(少なくとも)「建前」として共有しているとは言えない、と判断できると考えます。


 場合によっては「選挙権」や「義務教育」に関する権利をある人びとに認めないことを(あえて私も含む)「私たち」の社会は許容することがあるのです(それでも司法はそれを許さなかったわけですが)。


 差別と聞くと、何か「立場の強いものが一方的に弱者に強いるもの」という予断が働くようですが、これは違います。本当は立場など枝葉のことです。こういう予断があるので、たとえば在日朝鮮人と日本人国際結婚のケースにおいても、在日の側の親が「日本人と結婚すると血が穢れる」という類の発言をしてもそれが差別として問題視されなかったりするのです(これが抜き難い偏見による差別以外の何でしょう?)

考えたこと

 オウムのケースで考えたのですが、差別という行為のある部分はプリミティブな「他者への恐怖心」によっておきるのだと思います。ですから、啓蒙主義的な発想では「知識を得れば恐怖心は消えるから差別は解消する」となっているのでしょう。この考えの筋をお持ちの方は多いと見受けられます。しかし原初的な恐怖心という感情が、どれだけ根強く私たちの中にあり、私たちを動かすものか、それははっきり認識する必要があるでしょう。


 「差別はだめ」という言葉は、ある意味「恐怖心を克服しろ」という命令です。それは克服したつもりになったとしても、結局ふとしたはずみにでてきてしまうような、そういうものではないでしょうか?
 だとしたら、それを容易に解消できるつもりになるのはナイーブ過ぎますし、私にしてもそれを乗り越えて「世界市民」にすぐになれるなどと自分を高く評価することはできません。滅相もないです。


 少なくとも「差別は絶対にだめ」と声を挙げたいと考える人にとっては、あのオウムのケースをどう考えるか、自分はどういう態度を取ったかを振り返ってみることが必要だと思います。
(あそこで躓かなかった左翼の方を私は数人存じていますがそれはあまりにも小さい動きでした…)