理想(つづき)

 まだまだ蒸しますが続きを少し…
 ちょっと観念的に書いてしまいましたので、少し言い方を変えます。たとえば世界市民という考え、これはこれで一つの理想だと思います。ただし、この言葉をどう受け取るかということについてはまだまだ定まった方向性もなければ、それに向けた実践もないと考えます。


 私がこの考えから受けとるものは、世界中の人びとの(扱いの)平等ということぐらいにとどまります。いえ、確かにそれは目指すに足る理想でしょう。しかしそれがいったいどういう理想なのか、またそれを求めることが現実としてどうなのか、そしてそれを求めない人々をどう考えるのか、そういったところが多くの人の合意を得た考えにならないかぎり、それは現実を動かす力にはなり得ません。


 「いちれつ兄弟」。これは天理教の教祖、中山みき(1798-1887)の言葉です。人間はすべて親神を親とする同一兄弟姉妹のようなものであるという教えです*1。漠然と平等を言うのなら、この教えでも良いではないですか?むしろそこに友愛が求められている分、世界市民よりも踏み込んだものかもしれません。


 今の世界市民という理想は、この天理教の教えよりも優れていると納得させるものを何か持っているのでしょうか?確かに漠然とした理想には誰も文句のつけようがありませんし、反対者も出にくいでしょう。ですが同時にそれは現実化からますます離れたものになるのです。世界市民運動とは「祈り」なのでしょうか?


 また、もし世界市民主義が多くの賛同を得て広まったとして、それはどのような世界を現出させるのでしょう?
 差別のない世界?そうでしょうか?一国の中でも、しかもそれが民主主義国であっても差別を根絶した国など存在するのでしょうか?争いの無い世界?一つの国民と他の国民の争いなど戦時でもなければそうそうあるものではありません。同じ社会の中の争いや殺し合いですら無くなってはいないのです。公平な社会?少なくとも機会の平等が(万が一)成立したとしても、能力や運による格差は必ずでてくるでしょう。そうなれば、むしろ環境の所為にできないだけ「劣ってしまった人」は言い訳もできずつらい世の中になるのでは?
(たとえば成績で優劣をつけるのが愚かしいと入試を問題視する人は、人格で合否が決定ということになったおそろしい世界のことを考えていないでしょう。成績をとやかく言われるほうが、人格で否定されるより慰めはありそうなものです)


 大体、こうした理想をあまり考えずに受け入れている人はナイーブな方が多いように思われます。たとえば、管理教育が悪いとか管理社会が悪いとか、それはそれで欠陥もあることには同意しますが、全ての管理をやめて各自各自の自由に任せた世界が調和のとれた平和な世界だとどうして思えるのでしょう?あまりにも楽観的すぎます。また同様に、政府が悪い国家権力が悪いと指弾するのはいいのですが、それがあるおかげで保たれているものを無視した言い方は、少々目先のことしか考えないと言わざるを得ません。そして世界市民ですが、そういう理想があるとはいえ現行法などを無視し、無闇に他国の方への扱いを自国民と同じにせよと、それをしない国家機関は悪であると決め付けて糾弾する権利など誰にもないと思います。一つの理想を共有しないということが罪になるはずはありません。それが真に万人に受け入れられる理想ならば、説得が効かないということがありましょうか?それを独り焦れてすぐに糾弾調で語るのは、結局理解者を減らすのに役立つのみだと愚考します。
 上に挙げた理想家の人たちはナイーブです。しかも善意のナイーブさだからこそどうにも大変です。よく考えていただければ、少しはわかっていただけると思うのですが…


 コスモポリタニズムが政治の目標となってくるのはまだまだ先のことでしょう。それを理想となさりたい方々は、具体的に実現するために今考えなければならないことが山のようにあると思いますし、それを語らって賛同者を得ていく実践に移るべきだと思います。
 そうでなければ、それは「一つの信仰」と変わりないものです。それはそれで尊いところがありますが、せめてそれならば他者をそういうもので(心の中でも)裁くのはやめて欲しいと切に願うものです。

*1:新宗教研究調査ハンドブック』雄山閣、1981より