靖国信仰を捨てろと言う人

 ひさびさに靖国神社のことについて触れますが、それがこのような暴論に接してであるということを悲しく思います。また八月がやって参りました。靖国についてかまびすしくなることでしょう。しかし何が言われたとしても、参拝なさりたい方はして、関係ないと思われる方は静かに見守りましょう。それだけが正気な行動だと思います。


 あまりの暴論に言葉を失いかけたのが、韓国「中央日報」紙の「靖国信仰」を捨てなさいという意見記事です。

【中央フォーラム】「靖国信仰」を捨てなさい


8月になると韓日関係で年中行事のようにみられるのが靖国神社問題だ。今年は小泉純一郎首相が15日を選んで参拝する可能性があるという。外交摩擦の火種がゆらゆらと燃えているわけだ。


われわれが靖国参拝を批判する最大の理由はそこに合祀されているA級戦犯のためだ。戦犯を参拝することは、イコール侵略戦争を肯定する行為であり、受け入れることができないという論理だ。しかし冷静に計算すれば、これは靖国の本質を斜に見る危険がある。枝葉末節に興奮したあげく本質に触れることができないというものだ。

 靖国神社は単立の宗教法人であり、そこに対する信仰は個人の自由の範疇にあります。誰がその信仰を捨てろと命じることができるでしょう。しかも、他国人がそこに容喙する(してよいと考える)など言語道断のことです。何様のつもりでしょうか?
 これを記事として出す「中央日報」は、日本において信教の自由が憲法で認められていることを知らないのでしょうか?調べていない、知らないなら言論機関としてほとんど失格。しかも韓国のメディアはこの憲法第20条の「国の宗教活動の禁止」をよく持ち出すではないですか?知ってて言うなら傲岸不遜であり、礼を知らない野蛮な者という謗りを免れません。

 日本国憲法第二〇条[信教の自由、国の宗教活動の禁止]
 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。(二項以下略)

 靖国神社に時の総理大臣が参拝することを憲法上の争点と見る方がいることはわかります。しかし総理個人の参拝は「国から付与された特権」ではありません。小泉首相は個人の信条での参拝と明言しています(参考「首相は個人の信条で靖国参拝と…」)。公的な参拝とは、参拝時の記帳に「総理大臣何某」と書くことではありません。ここで多くの方が誤解されていますが、公的参拝になるには、少なくとも閣議決定で参拝することが必要とされます。少しでも政治家が宗教に触れてはいけないとするのは、政教分離原則を言うのではなく単なる反宗教主義を言うこととしか思えません(参考「反宗教主義」)また、これはあくまでも日本の国内問題であり議論です。ここに口を挟むなど内政干渉そのものです。

まず確認しておくことがある。靖国戦没者追悼のための所ではないという事実だ。「追悼」というのは、死んだ人を思いながら悲しむという意味だ。ところで靖国は戦死を悲しまない。悲痛に思わない。逆に戦死を賛美する。戦死すれば神になって靖国に仕えられる光栄を享受するという。

天皇がくださった命を天皇に捧げたから、それ以上の名誉はない」とし、みながそのように信じた。それが「靖国信仰」だ。その洗礼を受けた遺族たちは、胸いっぱいに自負の念を抱いた。兵士らは「靖国で会おう」と死んだ。靖国はそのように日本国民を洗脳して戦意を高揚させた。

これは追悼とは根本的に違う。難しい言葉を使うと「顕彰」だ。功績を高くたたえ、賛美するという意味だ。

 追悼だろうが顕彰だろうが、他人様の信仰です。それを難詰することはできません。させてはいけません。
 そして、今現在靖国を参拝される方のどれほどが「天皇がくださった命を天皇に捧げたから、それ以上の名誉はない」と考えておられるでしょう?これはかつての靖国を以って現在の靖国を論難する詭弁でしかありません

靖国に併設された戦争博物館である遊就館に行ってみればこれを実感することができる。帝国主義の栄光と日本軍の功績をほめたたえている。功績というのはほかでもなく、戦争と植民地開拓だ。それで靖国には軍人と軍属の位牌だけ置く。民間人の戦没者靖国の関心事ではない。侵略戦争に功績を残せなかったからだ。


このような靖国の属性は今も変わりがない。靖国を批判しようとするなら、まさにこの点を浮き彫りにする必要がある。

 完全なダウト。これだけでこのみっともない記事は完全に無意味になります。
 靖国神社には「位牌」などありません。
 文句をつけるなら基本的なことぐらいは調べなさい。靖国神社のサイトに言ってもそれはわかりますから。


 靖国神社墓所ではありません。あそこには神はいてもホトケ(亡くなった方)はいないのです。靖国を受け入れる方々にとっては、そこに神となった父祖がおられるとうけとめることもできるでしょう。でも関わり無き者にとっては縁無き信仰です。(参考「私家版 靖国問題の基礎知識」1〜5の記述)。

また靖国は純粋な宗教機関でもない。戦時中は軍が直接管理した。敗戦後も陰で日なたで国家の支援を受けた。例えば日本厚生省は戦犯を含む戦死者名簿を靖国に渡し合祀した。1956年には日本政府が国庫480万円を靖国の合祀作業に支援した。この程度ならば小泉首相靖国参拝は宗教活動とはみられない。韓国や中国の批判が内政干渉という日本側反応も首相の参拝が国事と同時に高度な政治的行為であるのを自認しているのだ。


それならわれわれも日本の政治的意図を意識しながら靖国問題を見ていかなければならない。A級戦犯分祀を要求すればいいだけの問題ではない。A級戦犯靖国アイデンティティを示す象徴であるだけで、本質ではない

 「かつて」の靖国神社の位置づけを以って「現在」の靖国神社を断罪することは愚かです。また戦死者名簿の件については、それは「祭神名票」という名の空白の冊子を靖国神社側が厚生省(現厚生労働省)に出して、ここに戦死者名を書き込んで欲しいとお願いしている程度のものでしかありません。厚生省の中には非常に戦死者のことを思い、もっと協力したいと思われた方がいらしたことは事実でありましょうが、靖国の戦前の位置づけを考えると戦後の日本政府は非常に抑制の効いた対応をしてきたように思います。


 それに、記事の最初で「われわれが靖国参拝を批判する最大の理由はそこに合祀されているA級戦犯のためだ」と言っていたにもかかわらず、ここでもうすでに「A級戦犯…本質ではない」ですか?論旨が矛盾しています。どう理解しろというのでしょう?

万一、靖国が韓国と中国の要求通りA級戦犯分祀するとする。首相が参拝しても問題を提起しにくくなる。われわれ自らが靖国ナショナリズムを赦免する体たらくになる。首相の参拝を定例化した後、天皇の参拝を実現するのが日本右翼の意中だ。この場合「靖国信仰」の挙国的布教活動を阻むことはできない。そのような面から靖国分祀に応じていないことは、むしろうまくいっていることかもしれない。

 結局、自分たちが難癖をつけたいだけというのがよくわかりました。日本のナショナリズムが悪だと言いたいだけなのですね?しかもかつては靖国天皇が参拝されていたときに何も文句をつけなかったくせに、今後の天皇の参拝を問題視するのですか…ためにする議論とはこのことです。


 なおかつ「韓国と中国の要求」とは笑止です。あなたたちのご先祖も「戦犯」の側ですよ。一緒に戦っていたじゃないですか、朝鮮の志願兵の方たちが…。少なくとも日本は、第二次世界大戦で朝鮮と戦っていないのは明らかな事実ですし(それを言えば戦勝国としては中華民国なんですが、まあ突っ込みはよしておきます)、あなた方の要求は中国と同列ではあり得ませんから。


 そして「挙国的(靖国信仰の)布教活動」とは何のことでしょうか?ススキの穂に怯えているのでしょうか?

このほかにもわれわれが見守らなければならない点がある。靖国が日本の青少年層を発掘しているという点だ。靖国は2000年から青少年のための歴史スタディグループを運営している。デモクラシーと経済成長により緩んでいった皇国臣民意識を引き締めようとする意図だ。99年には英霊の功績を称える研究事業に対する財政支援制度も作った。教科書歪曲(わいきょく)の主犯である「新しい歴史教科書をつくる会」の支援を念頭に置いたという。


本当に不憫なことだ。世界第2の経済大国で、まだアナクロニズム的な皇国臣民意識が再生産されているからである。これは侵略戦争に対する反省が足りないところから始まった結果だ。


このような状況では外国人がいくら言ってみたところで無駄だ。日本人たちの健全な市民意識が「靖国信仰」を考査させるほかない。日本人が自ら方法を見つけ、実践し、国際的評価を受けなければならない。これができなければ日本は過去の桎梏(しっこく)から脱することはできないだろう。


南潤昊(ナム・ユンホ)メディア企画チーム長
2005.08.01 12:28:01

 本当に不憫なことです。韓国の三大紙の一つがこのような馬鹿げた記事を書いて恥ずかしく思わないとは…。
 いちいち検討するのも馬鹿らしくなるような言葉が並んでおりますが、ちょっと気が昂ぶりましたのでこれ以上細かく突っ込みません。


 こういう傲慢な記事に会うと、過去の桎梏など露ほども感じなくなるというのが私の気持ちです。
 靖国に参る自由を守ることは、この文脈では信教の自由を守ることに他ならないと私は考えます。個人としては靖国に信仰を持つものではありませんが、そこに参る人を守ることならぜひ協力していきたいと思いました。以上です。