天災の責任

 どうやら昨日の地震で死者はでなかった模様。倒壊家屋や天井の崩落もあったのに不幸中の幸いです。震度6弱と聞いたときには悪い想像も働いたのですが…。とはいえ、なぜか私は全然気が付きませんでした。車に乗って友人と昼を取りに出ていた時だったと思われますが、気付いたのは1時頃の津波警報解除のあたり。隣接市町村が震度3から4だったのに二人とも全く感じなかったのはなぜでしょう?車に乗っていたからか、それに加えてここの地盤が特に固いのか…。


 さて、天災などが起きると、それを為政者の失政に帰するような考えが日本にも未だにあるようです。これは大陸伝来の考え方ではないかと思います。

 Another important deity unique to the Zhou was Tian (T'ien), usually translated as Heaven. It may seem odd to call Heaven a deity, but the Zhou people thought of the vault of the sky not as a place but as a force, for it was the original source of natural and moral order...
 **Zhou(Chou)=周, Tian(T'ien)=天
 ("Religions of Asia", St.Martin's press, New York, 1993.)

  • もう一つの周朝独特の重要な神格は「天」である、通常それはHeavenと訳される。Heavenを神格と呼ぶのは奇妙と思われるかもしれないが、周の人々は天の蒼穹を場所ではなく力と考えた、それ(天)は自然と道徳の秩序の源泉だったから…

 古代中国で生まれた「天」の思想では、それ(天)を自然と道徳の秩序の源泉の神格と考えます。言い換えるならば、自然現象と社会秩序双方を連続したシステムとして捉え、それを司る神的存在を「天」と考えたのです。この「天」はしばしば「上帝」と重ねて見られますが、基本的にはより人格化されない存在としてあります。


 彼らにとって天災とは字義通り「天意の表れとしての災害」でした。『管子』「侈靡」篇に、「これを天変に視て、これを風気に観る」という語がありますが、日々の気候や日月星辰の運行も天のシステムを測る(占う)手がかりとしてありましたし、地震旱魃、虫害や水害などの大災害ともなれば、時に天意が現王朝を嘉せぬ現れであるとして革命の機運を高めるものとしても考えられたのは『三国志』など後代の書までずっと通底している見方でしたね。

 『周礼』の春官「保章氏」に、「五雲の物(色)を以て、吉凶・水旱降・豊荒のしん象(天象にあらわれる前兆)を弁ず」とあり、鄭司農の注に「二至(冬至夏至)二分(春分秋分)を以て、雲色を観る。青を蟲と為し、白を喪と為し、赤を兵荒と為し、黒を水と為し、黄を豊と為す」という。いわゆる占候の術である。保章氏は占星・占雲を職とするもので、古く世襲のものがあったのであろう。
 (白川静『中国古代の民俗』講談社学術文庫


 大きな一つのシステム(宇宙)の中に自然も社会も組み込まれ同期して動いている、というのは「宇宙的宗教」(cosmic religion)と呼ばれる類の宗教では普通の表現だと思います。多かれ少なかれ、現存するほとんどの宗教もこの発想を残存させているかもしれません。ですが、それはあくまで一つの宗教的表現でしかないのです。

 もちろんこの天の考え方は日本にも伝わりましたが、古代中国よりも頻繁に周期的に天災(台風や地震)に見舞われる日本では、天災を以って時の為政者を責めるという考えはそれほど大きくならなかったように思われます。確かに天変地異や戦乱が時代の変わり目を意味したかに思われる時もありました。たとえば『方丈記』の冒頭などがそうです。あそこには打ち続く地震や火災、水害、旱魃などの天災の描写があり、「世の乱るゝ瑞相とかきけるもしるく、日を経つゝ世中浮き立ちて、人の心もをさまらず」と記されていて、それはちょうど平氏の政権の滅亡と符合するものではあります。
 ですが、小野不由美が『十二国記』で描くような「失道」による災害という観念は、いささか日本の「まつりごと」の中で主流の「責め方」とはならなかったと思うのです。むしろそれを「仕方のないもの」として運命的に受け入れ、むしろそこから立ち直る方を考えるのが日本の民衆であったのではないかと…。
 上記『方丈記』でも災害の原因を失政や没義道に求めるのではなく、すべては仏教的無常観に回収されている感がありますし、これは『平家物語』においても然りです。そこに因果応報的発想はあるものの、全体の流れには無常なる世を慨嘆する色調があり、一方的に平氏の政治を失政として責めるものではありません(どこかに滅び行くものに対するいたわりがあります)。


 何かあるごとに他者(誰か)を責めるというのは、やはり恥ずかしいこという考え方が日本にはあったと思います。(ただし、全部自分が悪いと自責してしまうのも度が過ぎればよくないことであろうというのは、かつて書いたところ(自分が変われば世界も変わるというメンタリティー)でもあります)
 そして、自分の力ではどうにもならないものに対する畏れや、同じ立場にいつなるかもしれないという意味で被災者に対する真の同情もそこにあったのではないでしょうか?