補遺の補遺の補遺

 16日の日記に、akira_arawasuさんからコメントをいただきました。その前のacoyoさんのお言葉といい、いかに自分の至らない表現が通じていないか痛感させられました。反論ではなく、反省を込めて補わせていただきます。


 akira_arawasuさんにお答えする形で申しますと、私が差別問題で主張したいのは、すべての差別において自分が無垢だということではありません。また、差別を無いものとして過ごせということとも違うのです。ここらへんがきちんと表現できていなかったようで、それは私に非があるかもしれません。読んでいただいた方にお詫びいたします。


 同日のコメントで、ponta_noさんがおっしゃられるようなところが私の頭にもありました。

 …「事実として知らなかったから、差別しようがなかったに過ぎない」という議論は常にありました。被差別の立場にない人に対して隠された透明な制度が現実として存在している以上、誰もが「自分の手は奇麗だ」「差別などない」とは言えず、もっと勉強すべき、といった結論に必ずなっていきます。

 ここで出てくるような類の「知らないから自分は差別していないと思ってはいけない」という言葉は何度か聞いておりました。それを若いときは自分に対する叱咤と受け止めたときもありましたし、そういう言葉で真剣に反差別の意識を高められる人が増えるのは単純に悪いこととは言えません。でもその後この種のレトリック、「倫理的突きつけ」に対して疑問を持つようになっておりました。

 一つ二つの差別に単に無知であったから加わらなかったとして、他で絶対差別していないと言えない以上それは自分の問題として考えねばならない。また表層で差別していないと思っているにせよ無関心でいることは差別の温床を残していることに他ならず、さらに差別を積極的に無くそうとしないことは差別の維持に加わっていることにつながり、それは差別しているのと同じように罪である。

 煎じ詰めるとこういう言い方、これに対してもの言いがしたかったのです。これはほとんど相手に差別という罪を背負わすためのレトリックであるように感じますし、倫理的脅迫に思えます。
 無関心層を掘り起こす、あるいは関係ないと逃げる人を差別という現実に向き合わせるために必要だと考えられたレトリックだったのかもしれませんが、これはちょっと酷だと思うのです。そしてこういうもの言いをする人は、大抵自覚させた後の相手に対し「何をすべきか考えなさい」とはしてくれないのではないですか? 「こうすべきだ」と自分の思う行動に向かわせようとするのではないですか? 
 私は上の言い方が罪の自覚、その共有のために使われるならまだしも理解したいと思いますが、断罪として用いられるのには反発を感じます。たとえそれを語るのが「差別された側」だとしても、その人すら一方的に被害者とは言えない面があります。それを考えたらどうして上の立場から語ることができるでしょう。
 そしていきなり断罪され、罪の意識を負わされた若い(善良な)人がその相手の「正しい」とする方向から自由になるのは難しいことです。それはアンフェアに思えます。


 これに対してむしろ単純に言葉をぶつけてみたかったというところがありました。だから仮想敵に対する言葉のようなものであり、その設定が間違っているというのなら私は無駄なことを言っているだけでしょう。そのぐらいの開き直った気持ちで、


1 自分が直接責任を問われるべきではない「差別」は存在する。それに対しては誰も糾弾できはしない。
2 差別問題を徹底して教育するということ自体が差別の温存につながっていることはあるのではないか。
  そういう場合はむしろ「風化」させることも考えるべきでは。
3 差別という現実を認識するのは絶対必要であるが、それに対してどう対応するのが良いかは、当人自身が考えて自分で選ぶべき問題ではないか。
 

 こういったことを自分の切り口として、上記仮想敵に何か言えないかと思って書いた部分がありました。自分で考えているうちに興奮し、まとまりのない文章になってしまったことで迷惑をかけたり誤解を招いたりとさんざんなのですが、それでも口に出した以上は納得するまで考えていきたいと思っています。一朝一夕には答えはでないかもしれませんが…


 akira_arawasuさんは留学生が「差別された」という感想を持ったという実話を語ってくださいましたが、それがどういう具体的な差別なのかということが大事なのではないでしょうか? ここらも今考えている方向です。単に差別された人がいるというだけではなく、それがどういう差別かがわからなければ反省の糧にもなりません。
 とても聞きづらいことではありますが、もし可能ならその場その場でそれを伺うべきかと思います。
 たとえば他の種の事件では「私は被害にあった」という言葉を聞いただけでは何も始まりません。もちろん心の問題ですから傷の程度は推し量りにくいのですが、少なくともシチュエーションを伺わなければ本当は何も聞いていないのと同じではないかと…。
 そしてこの場合は相手の方が留学生ということなのですが、はっきり差別があったとして、それは何も日本人全体の罪ではありません。たとえば日本人がアメリカで何か差別にあったとしても、私たちがすべてのアメリカ人を差別者として告発できないのと同様です。


 ただネックなのは、こうして自分は差別の主体ではないと切っていくことで、どこかで差別してしまっているかもしれない自分に対する自覚は生れにくくなると思えることですね。その点は意識しないと私の言葉は単なる免罪符になってしまうかもしれません(ponta_noさんに言われてから少しここらを考えました)。
 一人でいろいろ考えているところです。もしご意見などがございましたらお願いいたします。