エリート教育

 旧日本軍の士官へのエリート教育は、失敗を叱らず徹底的に自分で考えて行った成果を評価するというものだと伺いました。誤りを怖れて萎縮しないよう、また自分で考えて行動することに喜びを与え、リーダーシップも含めたイニシアティブを取ることへの意欲を高める教育だったのです。
 これに対して下士官以下新兵に至るまでの教育は、徹底的に命令に従うことを要求するものだったと聞いています。少しの命令違背も厳しい叱責とペナルティの対象となる。こうして自分で考えず指示に従って動ける人間を生み出そうとしていたのです。


 評価はさまざまあると思いますが、私はこれを聞いて戦後は「エリート教育」なんてなかったんだなと思いました。そして上の教育のネガティブな結果というものをちょっと考えたりしていました。
 今日から仕事が元に戻ります。これまでほど余裕が取れないでしょうが、とりあえず夕方以降に続きでも…

続き

 長いこと楽していたので、身体と気持ちが疲れ切りました。でももう少し書きたいと思います。
 たとえば官僚がエリートだとか有名大に行けばエリート候補だとか、本気で言われたり揶揄されたりというのは見かけますが、上に挙げた旧日本軍のように本気で指揮・指導するタイプの人間を作ろうとしていない限りそれは「エリート」とかいう存在ではないように思います。それが良いといいますか、結局は「庶民派」なんてところが受ける(逆にエリートっぽいと反発を受ける)のが今のこの社会だと感じますので、無理に偏ったエリート教育などしない方が幸せな人が多いかもしれません。


 旧日本軍の教育は、おそらくヨーロッパのどこかから方針などを学んだのだと思いますが、ある時期のヨーロッパには(あるいは今も少数)生まれながらのエリートというような存在がいるとも耳にします。日本では「平等」が建前にありますし、後から立身したとしてもそれはどこか本物にみなされないような気もします。もちろん文化・芸能の分野で、何代目を襲名するとかいうものには熱烈に支持する人もつくのですが、皇室を別にすると必ずしも生まれだけで本当に尊敬を集める、あるいはエリートと目される家というものは考え難いです。小泉首相のところは三代目の政治家ですが、あの芸能人の坊ちゃんが次に政界入りを当然視されているというようなことはないでしょう。


 子供をのびのび育てたいとする教育関係の方々は、一様に命令服従型の教育を嫌い自発型の「エリート教育」風のものを目指しているように思えます。発想としてはわからなくもないですが、あくまでエリート型の教育が有効なのは大多数の指示される側に対して少数のエリートが位置するというモデルなわけで、士官の比率が極端に高い軍が弱いとされるのと同様、自由気まま型が多い社会というのもおそらくうまく行かない(というか効率が悪い)のではないかとちょっぴり危惧します。それはそれで幸せだと思える方はいいのでしょうが…


 それにその旧日本軍の作られたエリートたちの一部は、「自発的」に戦線を拡大したり、政府の方針に「服従しなかった」り、「失敗に学ばなかった」りとネガティブなところも見せてくれていたように思います。要はやはりバランスでしょう。そして今現在のこの社会の人々が、やや気儘な側にいるように見えますので、次の揺り戻しはきちんとした側に向かうというか、それを知らず知らずに社会が選択するようになるのではないかと思います。こうして揺れながら、大体ある程度自由である程度規律を重んじるあたりの人が増えてくれれば、私はそれを住みやすい社会と考えるでしょう。
 そういうどちらかへの行き過ぎを正す「集団知」は存在しているように思えます。それは(社会)集団が自らの存続に好都合なように、自然に備えている知恵なのではないでしょうか?