「たかが…されど…」

 It's just a movie.

 「たかが映画じゃないか」とは伝説的なアルフレッド・ヒッチコックの言葉です。日本ではフランソワ・トリュフォーの『定本 映画術』(晶文社)での紹介の影響もあってか、アメリカ以上に人口に膾炙している感があります(単純に検索した結果からそう思いました)。これはまさに「囚われ−呪縛」を一気に解消してしまう「相対化」の言葉であると思います。


 先日文化相対主義について少し書きましたが、私は「相対化」自体の効用は評価しておりますし文化相対主義も意義あるものだったと考えております。ただ相対主義の行き過ぎが目につくようになってきたとは思うのです。
 世の中の様々な分野で「大きな物語(グランド・セオリー)」が通用しなくなってきているとは良く聞く文句です。これには相対化の視点というものが関わっているでしょう。ただこれについては、「大きな物語」が弱まったから相対化が可能になり、相対化が可能になったから「大きな物語」が弱められる…というような「卵が先か鶏が先か」に似た構成もあるようにも思います。


 人はそれぞれの意味連関(主観的なもの)において世界を把握して生きていると考えます。また、いかなる客観に対した時も、その主体の「視点・視野」の限定を逃れることはできません。それゆえ、千人いれば千通りの世界があるというのも一面の真実です。ただ、それぞれの人の生に共通の基盤が多ければ多いほどその世界は類似のものとなりますし、最低限ヒトとしての同じ感覚というものは存在するとは思います。さもなければ共通の現実というものについて語られることはないでしょう。
 「視点」の限定性は、遠近法の錯誤というものを各人に与えます。いえ、錯誤という言葉を用いれば偏りのない客観を前提にすることになりますから、遠近法の偏差と言った方が良いかもしれません。これは、自分に近いものは大きく見え、遠いものは小さく見えるという比喩でご理解いただきたいのですが、個々人の世界の中で何を大事なものと思うか、何を拠り所とするか、どう生きるかについては「ずれ」があるということです。
 「大きな物語」は時にこの偏差を極小にして人に同じ視点を強いることがあるものですが、逆に言えばそこでは人は迷いやずれに悩む必要はないとも言えます。(ただこの「大きな物語」が政治的に形を取るとき、人の生き方まで決めてくるという怖さはあります)
 何もイデオロギーの話をしなくてもたとえば盲目的に誰かに恋してしまったとき、傍から見れば相手がどうしようもない人間であろうとも、本人にとっては相手が妙に近く大きな存在としてあり、家族や友人などより大事に見えてしまって誰の言葉にも耳を貸さないなどというのは身の回りにあることです。
 相対化とは、この遠近法の偏差によって個人的に大きく感じられてしまう存在を、離して置いてみて評価し直すこととも言えます。そうすることで、何か絶対のものに見えていた存在への囚われから脱することができたりもするのです。


 しかし、相対化に継ぐ相対化で「自分にとって大事なもの」をすべて斥けてしまったとしても、そこに誰にとっても等しい「客観」の世界を求めることはできません。むしろその行き着く先は、大事なものを見失った索漠とした世界というものでしかないでしょう。それゆえ決まり文句(クリシェ)ではありますが、「たかが…」という相対化の後に「されど…」という言葉が求められるのだと思います。
 ヒッチコックの「たかが映画じゃないか」に「されど…」が続かなくてよいのは、彼が人生を懸けて映画と関わったことを皆知っているからであり、暗黙のうちに「されど映画」と語っているからです。
 「されど…」は相対化で突き放したものをもう一度自分のもとへ意味として回収する働きを示します。もしその存在が以前と同じような重要性をもって帰ってきたとしても、それは一度相対化しているというところで決定的に位置づけを変えているように思われます。そこには何か有限の存在がそれを自覚しつつ無限を求めるといったような「諦観の美」があるのではないでしょうか?


 「たかが…されど…」という決めの言葉を、それにふさわしい文脈で目にするのは私にとって一つの喜びです。何かを絶対視して頑なになっているのは野暮の極みですが、相対化とその乗り越えには美しさを感じます。だからこそ、いつまでも自分の書くものにはなかなか使うのが難しいなと思ってしまうのですが…