続「勝ち組」とか「負け組」

 貧富という言い方は相対的なものです。食うに困るという貧しさを無くしたとしても、収入がすべて均等な社会にでもならない限り必ず貧富は言われます。また単純に収入の多寡がその人の幸せをはかる尺度にはなり得ないというのも、ほとんど常識になっていることではないかとも思います。 そして「価値の多様化」ということがこれほど称揚される世の中で、なぜ今、収入レベルで語られる「格差」に人々がこれほど注意を引かれるのか興味深い問題です。


 教育を通じた階層の固定化、という煽情的なフレーズにはかつて疑問を呈しました(過去日記)。この(誤解された)キータームを除けば、階層・階級の二分化などということは時代の気分に過ぎないように私は思います。長い目で見て、取り返せない行き過ぎ・是正できない過誤がこの時点で来ているという見方には与しません。
 社会の劇的な変化が来ているかどうか、その程度をどう見積もるかという問題になりますと、結局のところ水掛け論に至ってしまいがちですが、少なくとも「後戻りできない二極分化」を主張される方々の論拠からこの「教育を通じた階層の固定化」を除けば、そこに目新しい説得的なものはないと感じられて仕方がないのです。


 またこの議論では「なぜ二極分化するのか」についても実は意見の統一が取れているわけではなく、それゆえ「どうしたらいいのか」という対策についても呉越同舟状態ではないかと思います。確かに振り返って見れば、日本のある時期は「かなりの人々が同じ方向を見ていて、今よりは均質性も感じられ、希望も共有されていた」ように思われるのは事実でしょうが、この議論はそこへ戻れというものなのでしょうか?
 経済成長期に、若々しい新興国の国民が「豊かになること」を目指してそれを実現していくというストーリーは、今後しばらく日本には廻ってこないでしょう。経済的要因のみならず、人々の知性や感性、価値観もすでに従前のものとは変わってきていると思いますので「あの時」を再現するのはすでに不可能だと考えます。
 また単に今に否定的になるあまり、過去のここが良かった云々を並べて語る方々でも、その過去に対してきちんと自分なりの功罪判断をなさるのなら良いのですが、それもなさらない方が多いように思います。たとえば最近の「成果主義」にしましても*1、働きに応じたリワードが得られないという「結果悪平等」の問題点を受けて、それでは社会の活力がなくなってしまうという議論から出てきているのではなかったのでしょうか。二極分化−階層社会形成論を語る方の中でも、機会の平等を徹底せよと唱えられる方もいらっしゃいます(ex.SAPIOに書いていた林信吾氏など)。逆にそうした非情な成果主義が「リスクを強要するから問題である」(ex.『希望格差社会』の山田昌弘氏など)と捉えていらっしゃる方のほうが多いようにも感じます。
 大まかに言って、かつてとは違うということ、それが今までの均質的な社会とは異なってきているという状況認識ではある程度の一致をみるものの、それをどのような問題として捉え何を目指すのかについてはまだまだ統一されていないと思うのです。特に目指す先についてははっきりしたもの言いをされる方は少数であるようにも感じます。そこらへんが「煽り」に見えてしまう原因のひとつですが…。
(後でちょっと続けます)

つづき

 ちょうど折りよくマッコイ博士さんからコメントをいただけましたので、そこらで少し続けます。
 外出を控えていましたのであと少しのところで上の日記を書きさしましたが、大体書こうと思っていたのは次のようなことでした。
 今社会の変化が二極分化論として出てくるのは、これからどうなるかに対する明確なヴィジョンが得られていないところに問題があるのではないかと思います。少なくとも今までと同じようにはいかないという漠然とした不安は多くの方が持っていらっしゃるようですし、先が見えなければ悲観論も出てくるのは当然。まして決して好況とは言えなかった時期が続いていましたから、何か暗そうな未来像がそれなりに説得力を持つように思えるのも仕方がないことかも…云々。


 大前提として、直近の過去を「均質化した社会・横並びの境遇」と措定した場合、それが変容した社会は「多極化」としか描写できないでしょう。問題はその多極化にしても基準をどこに取るのか、それが二極化なのかそれより多いのか、それが一時的なものなのか永続的なものになるのか、といった点にならざるを得ません。
 まず私は現在語られる階層の二極化という議論が、ほとんど収入の多寡(付け加えるならそれに伴う文化的志向の強弱…これだけで語られるのを見たことはありませんが)に終始しているのではないかという印象を持っています。多極化がこれだけで語られるのは奇妙ではないでしょうか?それこそ価値観の多様化が現実のものならば、収入にこだわらない一定層は当然考えられますし、皆食べていけるという前提の下ではそれは危機感を以って語られるべきものとも思えません。また当然その場合には「二極化」という限定がつけ難いでしょうし、それもあって上下二極化のような議論は多極化の他の可能性を踏まえた上での議論なのかに疑問を持ちます。
 次に、いくつかの極に分かれた集団を考えていくにしても、ある収入のレベル(水準)を基に見るならばそれはどのようにしても上下への分化になるでしょう(もしくは変わらないという判断もあり得ますが)。その基のレベル・範囲が確定されている議論は残念ながら見たことがありませんし(これがなければ「変わらない」という判断はできません)、なにより大本の議論を語られる方たちがこれを「所得層の分類」のみで語っておられるわけではありません。多く見られるのは無業者の増加や正社員数の低下のデータです。これは不況や産業構造の変化によって変動するものですから、今後の推移に関してはそう簡単に予測することはできないでしょう。たとえば2007年に団塊の世代が多く退職した後にどう変わるのか、それすら単純な予測はできません。もし、どちらかでまさにピッタリのデータをご覧になられたのでしたら、お教えいただければと思います。(厚労省の賃金構造基本統計調査内閣府の年次経済報告からは、今のところまさにこの二極化を示すような図表を見つけることができておりません(データの羅列からすごく探し難いのは確かです)。(※厳密に言うならば、賃金構造の上下への分化が見られるとして、それが一時的なものではなく、それより長いスパンのものとして表されていると考えるに足るデータとなりますね。不況が続いて無業者や時間労働者が増えることによってそれは変化しますし、一時的なものならば好況が来れば再びもとの水準へ戻っていくでしょうから…)
 さらに、この変化の永続性に関してはそれこそ「教育を通じた階層の固定化」以外に有力な論拠として挙げられているものがあるでしょうか? ここに疑いを持つからこそ、私は多くの議論が眉唾に見えてしまうのです。よしんば二極化の傾向が見られたにしても、それが揺り戻しによって近い未来に取り戻せるものならば、ここまで危機感を煽る語り口にはならないのではと思うからです。


 先ほど触れたことでもありますが、もともとこれを語られる方たちは「心理的なもの」(山田昌弘希望格差社会』)とか「上昇への希望」(三浦展下流社会』)とかいったものを組み込んで立論されています。だからこそ私には世間の風潮が(たとえば好況によって)変われば、そこで描いた図も当然変わるものではないか、という当たり前の疑問を持つのです。
 もちろんマッコイさんもご存知のように自分の論に有利なデータのみを提示することによって、一時的にそれを信じさせるぐらいのことは可能です。しかし事がより重大に見えているとしたら、そういうデータ操作はむしろして欲しくないと考えます。真に世に警鐘をならしたいと論者が考えておられるならば、へそ曲がりにも文句をつけているだけの私を納得させるようなデータを(状況証拠の積み上げとかではなく)お挙げいただきたいものだと、(ちゃかしではなく)結構真剣に考えております。

*1:これはコメント欄でご指摘を受けてからちょっと調べただけなのですが