小泉批判の倫理的色調

 私たちは生き永らえれば誰しも老います。働けなくなる時がきます。身体も思うようには動かせなくなるでしょう。そういう意味では誰もが「弱者」をその中に持っています。先の話でなくても、それこそ生殺与奪の一切を自分以外のところにおいていた赤ん坊の時もあることですし、弱者の話は他人事ではありません。盛者必衰を忘れているのは愚かなことです。


 ただし、弱者に配慮した社会を望むということと弱者中心の社会を作るということは必ずしも同義ではありません。もちろんできるだけ弱者に配慮し、社会的資源の多くをそこに注ぐという「福祉社会」を目指すのは一つの立派な理想であり、主張であると思います。ですがそれは、他の選択肢に無条件に優先する究極の理想と言えるのでしょうか?


 小泉政権批判、あるいはそのポリシーとされる新自由主義批判を行う方々は、弱者切捨ての非道な政治とそれを語ります。この語り口は政策(ポリシー)を批判するものではないような印象を受けます。むしろそこで轟々と浴びせられる批判は(無意識にでも)倫理的な悪というものに向けられてしまっていないでしょうか?
 私は小泉氏とその周辺が何か一つのイデオロギーに基づいて意志を統一して行動しているとはとても思えませんし、強烈な小泉批判新自由主義批判に対してはどこか違和感がありました。新自由主義など所詮は政策の一つの考え方。百歩譲ってその理念的極地が自由競争にあるとしても、実際の政治の中では修正も効きますし、何よりそれを支持する人が少なければ政権は移譲され、また新たなポリシーが掲げられる…それだけのことではないかと思っています。


 政治は社会的資源の再分配という側面を持ちます。何を重視し、どこにどれだけの資源を割り当てるかという図面を引くのは、今の社会では政治の役割です。そして基本的にはすべての人を満足させることは不可能という諦観も持ちます。さもなければそれはユートピアの思想でしょう。要はどれだけ多くの人に納得してもらえるような再分配ができるかであって、政治を行う者が神に匹敵する能力を持つことは期待していません。運良く日本は民主主義国家ですので、多数が納得できない政治は投票によって換えることが可能です。本当に取り返しのつかない事態は、今まさに脅かされている生命以外のところではまずないのではないかと思います。


 新自由主義、もしくは小泉政治は非情だとよく聞きますが、社会資源の再分配が私情によって行われたらそれこそ危険です。民意によってある時期権力を任された人間たちは、それが大権であるがゆえに情などできるだけ絡めずに政治を行って欲しいと私は考えています。もちろん完璧な人間などいませんので、完璧な政治などはあり得ないでしょう。常により良い者を探す試行錯誤がそこにあります。


 一つ冷静になって考えていただきたいのは、新自由主義批判をされる方はその先の政治に何を目指しておられるかということです。私にはどうも「福祉社会」がそこに透けて見えます。つまり弱者を一人も切り捨てない、税や社会資本の再分配によって貧富の格差を極力縮める、そういった理想像がこの批判の裏側にあるのではないかと感じられます。しかしその理想が共有されているかというと、若干そうも思えない節もあります。
 批判するのよりも代替を提案する方が大変であるのは自明でしょう。批判から提案に変われば、その自分たちの理想もまた批判にさらされることになります。しかしだからこそ「小泉後」の政治を真面目に考えられておられるなら、しっかり代替案は示されなければなりません。それがなければ選択肢としては不可視だからです。それでは政治を変えることはできません。


 喉もと過ぎれば…と申しますが、高福祉社会に対してはかつてそれなりに批判もありました。いわく、高率の課税による重税感、悪平等による意欲の減衰、弱者の側にいようとするモラル・ハザード…。
 ある面、政治はバーターでしょう。手厚い福祉の反対側には税負担。安定した社会を望めば新規参入の機会は減少しますし、自由貿易を推進すれば国内産業のある部分は疲弊します。どちらの顔をどれだけ立てるかという組み合わせでポリシーが作られていきます。多様な人々の多様な利害がそこに関わるだけに、すべてを満足させることは最初から無理にも見えます。小泉政治というか、そこで何か批判を受けている新自由主義とかもこういうポリシーの一つに過ぎないと私は認識しています。その適用に問題があり、不幸になる人々が増えるならば、それを改めさせればいいのです。


 ところが、意識しているかどうかはわかりませんが新自由主義批判は強く倫理的主張の色彩を帯びています。
 それは「弱肉強食の政治」であるとか「弱者を切り捨てる政治」、あまつさえ「殺す政治」だと叫ばれている方もおります。これは普通一つのポリシーに向かって投げかけられる言葉ではありません。
 残念ながら今の私には「弱者を殺せと命ずる」ような思想が目の前に存在しているとは見えません。何か思いっきり自分の頭の中で思考実験し、思い詰めたところに架空の「悪」が見えているように見受けられます。そこではもはや政治が語られているのではなく、何か別の倫理が語られているのではないでしょうか?
 福祉社会を目指される方がいらっしゃるのは当然でもありましょうし、その声が多数となれば日本の政治がそこへ向かうというのもあり得るでしょう。それは真っ当なことです。ですが、福祉へのリソースの減少を「弱者殺し」と断定して立論するのは、意識的ならやや悪質ですし無意識なら若干的外れと言いたくなります。個別の案件で議論ができるのなら賛成もできましょうが(例えば障害者福祉法案とか介護法の運用の当否についてなど)、それを超えて語られる言葉は弱者を聖化して福祉を聖域化することにつながるのではないかと、そんな印象があります。
 冷静な議論に立ち返って、絶対の倫理を振りかざすことなく「政治」を見ていった方が、結局は自由な社会を作るうえで益があると思うのですが…。


 放言じみた言い方があったならばご容赦を。小人が閑居して書き散らした日記ですので。